正座が苦手な外国人へのおもてなし 明治期の幻の乗り物「椅子駕籠」とは?
力強い駕籠舁たち
椅子駕籠は外国人旅行客に向けて作られた乗り物であり、昔から日本にあったわけではない。その形状は、神輿(みこし)にも似ている。「動力」となっているのは、男性4人である。駕籠とは異なり、乗客が脚を折りたたむ必要はない。西洋の椅子に座ったまま、移動するような乗物である。 写真では小柄な女性が乗客となっているが、それでも、4人の肩にかかる重量は相当なものだろう。にもかかわらず、一番左に写るリーダーらしき男性の表情の、なんと涼しげなことか。彼らはみな、以前から駕籠を担ぐ仕事、つまり駕籠舁(かごかき)をやっていたのだろう。 椅子駕籠の駕籠舁たちの、足元にも注目してもらいたい。これほど重労働でありながら、4人中3人までが、素足に草鞋である。当時としては普通の装備ではあるが、これで人を抱えて移動していたのである。彼らの食事は、今より圧倒的に栄養価の低いものだったに違いない。しかし、果たして我々に、彼らと同じように動く身体の力があるだろうか。 なお、後ろに見えている「壬生屋(はふや)ホテル」は、現在の箱根ホテルの前身である。写真から推測するに、壬生屋ホテルに宿泊する外国人の送迎を、この椅子駕籠が担っていたのだろう。揺れは駕籠と変わらなかったはずだが、脚にも負担がなく、また何より物珍しかったため、人気があったようである。その証拠に、椅子駕籠の手彩色写真は、かなりの種類が発行されている。 この椅子駕籠は、ごくわずかな期間しか運用されなかった。それは、ある新しい乗り物が、人気を博したためである。それこそが、人力車だった。駕籠舁たちも、人力車の車夫に続々と転職していく。
人力車の隆盛とその終わり
明治の日本において最もメジャーな乗り物となる人力車は、早くも1869(明治2)年に誕生している。発明者は、旧福岡藩士で、当時は東京で料理人をしていた和泉要助、八百屋だった鈴木徳次郎、車大工だった高山幸助の3名である。西洋の馬車をヒントに考え付いたものだと伝えられる。 人力車の利点は、この写真を見れば明らかである。駕籠の時代は複数人で1人の乗客を運んでいたのが、人力車では1人で1人、あるいは1人で2人を運ぶことが可能となったのである。単純に考えれば、車夫の利益も一気に増えたに違いない。 一見良いことづくしの人力車だが、明治になるまで登場することがなかったのは、ただ発明が遅れたという理由からだけではない。人力車のような車輪付きの乗り物が運用可能となるためには、何より道路の整備が必要だった。西洋人が多く日本にやってきて馬車も運行するようになり、車輪のある乗り物が走ることのできる道が増えたことが、人力車という乗り物の登場を促したのである。 人力車は道路の整備された東京では一気に普及し、誕生から7年後の1876(明治9)年には、東京だけで実に2万4470台に至っている。そして、この鉄輪の乗物は、日本を越えて欧州や東南アジア諸国にまで輸出されていく。その頃には、駕籠はもうどこにも見られなくなっていた。 まさに、わが世の春を謳歌した人力車。車輪も棒ゴムタイヤ、次いで空気入りゴムタイヤに改良され、より性能を高めていった。しかし、おごれる者久しからず。今度は人力車の前に、自転車と自動車という我々もよく知る乗物が現れた。特に自動車は、人力も馬力も凌ぐ性能を持った自動車は、人力車には到底太刀打ちできない「敵」だった。 そして、明治の終わり頃。都市部において、あれほどの人気を博した人力車の姿は、もうわずかしか見られなくなっていたのである。幕末から明治にかけての変化は、日本の歴史上、疑いなく最速のものだった。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司)