33歳の美ボディモデル、「超女っぽい」という言葉に不快感...ワキの毛もありのままに見せて、“女性らしさ”について語る
自らの体を使ってジェンダーの既成概念に一石を投じるエミリー・ラタコウスキー(33歳)。「超女っぽい」という言葉に感じた疑問や、すべての女性が持つべき威厳と尊敬についてUS版『ハーパーズ バザー』に綴ってくれた。 【写真】エミリー・ラタコウスキーがワキの毛をそのまま見せた1枚。「体毛を伸ばしっぱなしにすることが、セクシーな気分にさせてくれることもある」 ーーーーーーーーーー 友人と休暇を過ごしていたとき、その一人がなにげなく私のことを「超女っぽいよね(Hyperfemme)」とコメントした。私は少し混乱した。なぜなら多くの点で、私のアイデンティティを単純化しすぎていると感じたからだ。日々の暮らしの中で、私は女らしいとか男らしいとかでなく、ただの自分としか意識していなかった。私は彼女の見解に驚かされ、突然自我の意識を感じさせられた。私が「全然女っぽくないときもあるよ。何言ってるの?」と返すと、彼女はあきれた顔をした。 その夜、私は女性らしさとは何を意味するのか、なぜ友人の言葉を何だか不快に感じたのかを考えた。実際のところ、私は女性らしくあることが好きなのだと思った。それは幼いころに始まっていた。私が12歳か13歳だったころ、レースのブラジャーや、ツヤツヤのリップグロスを試してみたいという明確な欲求を持っていたことを覚えている。楽しくてワクワクした。 もちろん、女の子であることの意味を探る私の幼いころの冒険のほとんどは女性蔑視文化の影響を強く受けていたことは確かだ。また、セクシーであり続ける方法の多くは女性蔑視に大きく影響されているとも確信している。でも自分らしくあることは気持ちがいいし、それは私の選択だろう。 フェミニズムとはすなわち選択ではないだろうか?ものすごく恥ずかしいと感じさせられた数えきれないほどの経験にもかかわらず、ときにはセクシーさを実験的に用いることにゾッとすることさえあるのに、当時は自分の女性的な面で遊ぶのが気持ちよかった。今でもそうだ。
「女性はもっと自由であるべき」と主張する、その理由は…?
私は本来の自分であると感じているときに強い力を感じるが、ときには本来の自分であると感じるのはミニスカートをはくことだったりする。またあるときにはオーバーサイズのパーカーやスウェットを着ることだったりもする。ノーブラでタンクトップを着ているときに、特に強くて自由な感じがすることもある。これは私の、その瞬間だけの話だ。もし私がノーブラであのタンクトップを着ないことを選択していたとしても、それもそれでよかったのだろう。 ワキ毛を剃ろうが伸ばそうが、それは私次第なのだ。私にとって、体毛は女性が選択する能力を発揮するもうひとつの機会だ。つまり、彼女たちがどのように感じたいかや、体毛の有無との関連に基づいた選択なのである。ほとんどの場合、私は剃ることを好む傾向があるが、ときには体毛を伸ばしっぱなしにすることがセクシーな気分にさせてくれることもある。決定が私自身の選択である限り、それは正しい選択なのだ。 最終的に、個人のアイデンティティやセクシュアリティはほかの誰でもなく、本人次第だ。私は決してすべての女性が自分の中のソティアナ(「軽い女」という意味のスラング)とつながりを持つ必要があると言っているわけではない。ただ、ブルカであろうがTバックであろうが、女性は着たいものを着たり、好きなように自分を表現したりできるし、そうあるべきだと言っているのだ。 これまで以上に、自分のアイデンティティのすべてを疑い、疑問を感じている。女性たちが持つことのできる唯一のものは、自分の選択だ。結局、ひとりひとりがどのように自分を表現すると決めようと、それが異性愛規範であれ、識別不能なものであれ、それはその個人的な選択なのだ。女性に自分が望むとおりの、この上なく多彩な側面を持った人になれる機会を与えよう。