VTuberたちは1年でどう変化した? 3人の識者が振り返る、2024年のバーチャル業界(前編)
目に映っているのはアバターか、スキンか
――では、「VTuber」という言葉が必ずしも使われなくなった、というトピックから深めていきましょうか。昨年の対談でも触れてはいましたが、今年はそれが目に見える形で表れた一年だったように思います。みなさんが思い起こす、具体的な事例はなにかありますか? 浅田:ニッチな事例からで恐縮ですが、ストリーマーが『VRChat』などに遊びに行った際、彼らが使っていたアバターでファンアートが描かれる事象が目に留まりました。たとえば、「2BRO.」の弟者さんはもとからイメージイラストがあり、スタンミさんに至っては実写の顔を公開していますが、『VRChat』で遊んだ配信の後に、彼らが使っていたアバターでファンアートが描かれているんですよね。 これを見て、彼らは「アバターを持ったタレント」として成立し始めたと考えたのですが、同時にこれまで「VTuber」と呼ばれていた存在との差異はなにか、どこに線引きができるのか、と最近考え始めています。当然、「顔出ししているのだからストリーマーでしょう」ということはいえるのかと思いますが、では「2.5次元VTuber」や、身体部位を出すVTuberとの差はなにか? このあたり、自分はソーシャルVRユーザーの「存在の受容」に近いのかなと考えました。たとえば、『VRChat』の友人とオフ会で対面しても、最終的にその人からイメージされるのはアバターである人が多いんです。それは、アバターを基点とした存在とは異なる、リアルの人から派生したアバターの存在という、これまでのVTuberとは少し異なる“バーチャルなあり方”の芽生えかな、と思った次第です。 あと、直近では『VRChat』上で活動しているクリエイターやイベントキャストが、「VTuber」としての活動を始めると宣言する事例も見られます。2017年~2018年に見られた「VRChatで活動するVTuber」に近いように見えて、出自がちょっと異なる存在も芽生え始めているのかなと、思っているところです。 たまごまご:それについては、ストリーマーのやみえんさんが配信で、こんなことを言っていたのが印象に残っています。「『VTuber』って、ぼくの中では世界観がしっかりしていて、その中で生きている方々とたまたま我々の住む『現実』とがつながって、向こうのコンテンツを発信してくれたのを、我々が『YouTubeを通して見れている』っていう状態だと思っているんですよ。それに対して、ぼくはいるんだよ。お前たちと同じ『現実』に。いる時点で、バーチャルYouTuberにはなれない」「バーチャルの人たちと一緒に何かをするときに、自分だけ実写だと一緒のレイヤーに立てない」と。これ、すごいわかりやすいなと思ったんですよね。 僕や浅田さんも当てはまりますが、『VRChat』にいる人は後者だと思います。リアルに住んでいて、バーチャルな体をまとっているだけなので。でも、『VRChat』からVTuberを始めようとしている方は、やっぱり『VRChat』側の人生・生活があって、そっちをメインにして、そこから発信をしていく。なので、これはやみえんさんの指す「VTuber」にあたるのではないかなと、いま聞いていて思いました。 そういう意味で、VTuberなのに実写の姿を出す人がめちゃめちゃ増えているのは、どういう状況なんだろうと不思議には感じています。 草野:多分、お二人の考え方が、アニメとかライトノベルの流れを汲む“コアなオタクの思想”だからそう感じるのかなと思いました。それは面白くて楽しいんですけど、実際にはそうではない人も今はめちゃくちゃ増えている。簡単に言うと、10年以上前からあるストリーマーの潮流を汲むものとして、VTuberをもっとライトに楽しんでるファンの方が、今は多分圧倒的に多いんです。 たまごまご:P丸様。のようなスタイルですよね。どちらかと言えば。 草野:あるいは『IRIAM』での配信とか、2.5次元アイドルの配信とかと同じ感覚ですかね。 ところで、NBAのスター選手、レブロン・ジェームスが『Instagram』でライブ配信をしているのを見たことがあるんですが、2.5万人くらいの人が視聴しに来ていたんです。「さすがに多いな」と思うかもしれないですが、レブロンのインスタのフォロワー数って1億人以上いるんです。アメリカなら誰しもが知る彼ですら、同時接続は2.5万人。そうなると、YouTubeで3万人も4万人も集めているのが「よくわからないアニメ調のキャラ」という状況って、意味わからないですよね。 これはお2人のようなコアな考え方でファン層が保たれて秩序化されている、このシーンの特異性だと僕は思っています。要は、中身を見せるか見せないかはどっちでもよくて、「あなたにとって面白いコンテンツを見せてください」というのが大部分のファンの論理感覚だと思うんですよ。その中で、実写を見せることで、嫌がられたり、むしろ好意的に捉えられたりっていうのは動きとしてあると思います。 そして、なぜこんな話が持ち上がっていくかと言えば、コアな人たちが持っていた判断基準を揺るがすぐらい、昨年から今年にかけての変化がドラスティックだったからだと思うんですよね。 たまごまご:草野さんの指す「ドラスティックな変化」とはどのような意味合いでしょうか? 草野:ファン層が全く異なってきているということですね。VTuberのファンでも、2017年~2018年から見続けてきた人と、2023年~2024年から見始めた人の感覚って、どうしてもズレるじゃないですか。あるいは、VTuberとは関わりなく、音楽や絵師さんから入ってきた人でも異なるでしょう。ここの価値基準がそもそも違うので、認識の違いが出ていますよね。 浅田:昨年の対談の終わりに「ポップカルチャー化」がキーワードに出てきた記憶がありますが、それが一層加速してるのでは、みたいな話ですかね。 草野:それと同じですね。『VRChat』の例でいえば、スタンミさんや弟者さん、あるいはホロライブなど影響力のある存在によってポップカルチャー化が進み、それにつれてこれまで『VRChat』にいた人たちが持つ感覚や価値基準を持っていない方々が入ってきてもいる。 たまごまご:VTuberの場合、ポップカルチャーとして認めている人たちが「これはバーチャルに入れていい」と捉える範囲が広くなってきたなと思っています。以前、ホロライブの桃鈴ねねさんが実写で自身の手を出していたのですが、自分は「ホロライブって、それやっていいんだ」とびっくりしたんです。今までは手袋をしていたのに、普通にネイルのついた指を映していたのですが、視聴者は驚きもせず、その手を当たり前に「桃鈴ねねの手」として認識していたんですよね。 これは、あおぎり高校なども同様かもしれませんが、「表現としてどちらかを選ぶ」だけの、もう少し軽い価値基準になってきたのかもしれないですね。 草野:先ほどの話に戻りますが、スタンミさんが『VRChat』にやってきてからのファンアートの描かれ方には、深い考えはないと思います。僕ら3人は職業柄もあり、いわゆる“境目”とかを考えがちですけど、ファン側の大多数はそんなことを別に考えていなくて、“そこに出ているもの”、“親しみやすい見た目”がスタンミさんの実際のお姿か3Dビジュアルかの違い、そこを基準にして描いているだけだと思うんですよね。 たまごまご:そうした“境目”に敏感そうな方は、逆にスタンミさんの「リアルの姿」と「アバターの姿」を両方描いていたりもしますね。ただ、どちらかといえばそっちの方がマイナーですよね。 草野:そうですね。「わざわざアバターで出してくれてるから、じゃあアバター描きましょう」っていう心の持ちようだと思うんで、そこは重く考えてないのかなと。 浅田:僕らはそれを特殊な「VTuberカルチャーとの接近」と考えたものの、実際はそうではなく、あるがまま目の前に映った結果をファン活動として出力しているのであり、そこに深い考えや思想はない、と。むしろ、そういうのを持ち込むこと自体が、ちょっと時代錯誤になりつつあるんじゃないか、と考えさせられますね。 たまごまご:実際、スタンミさん経由でやってきた『VRChat』新規層の方って、文化が全然違いますからね。なにせ、「アバター」ではなく「スキン」と呼んだりもしますからね。 草野:そっか! 「アバター」じゃなくて「スキン」って呼ぶのは、たしかにシーンや世代の違いを端的に表しているかもしれないですね。 たまごまご:自分そのものじゃなくて、ゲームのキャラメイクみたいな感覚と考えれば、すごくシンプルな捉え方ですよね。 浅田:スキン的なアバターの捉え方をする方々は、これまでも一定数見受けられますね。例えば、服に合わせてアバターの方を改変(※市販アバターのカスタマイズ)をする人には、その傾向が見られます。一方で、「この世界で動く自分の代理人」を作りたい人は、自分の1対1のアイデンティティを持つという意味ですごいVTuber的ですよね。 それって、2018年ごろの『VRChat』で個人勢が活動していたことと、意外とリンクしてるのかなと以前から思っていてたのですが、今回のスタンミさん来訪に伴う変動で、さらに可視化されたような感覚です。 たまごまご:VTuberと名乗る人・名乗らない人がいるのも、アバターとスキンの違いがあるからなのかもしれないですね。確かに、ニコニコ生放送の配信者だって、キャラクター持ってましたもんね。