イチローが愛する野球を通じて伝えたかったものは何だったのか?
1991年にオリックスにドラフト4位で指名され、プロ野球選手となったイチローは、日米通算28年目となるシーズンに故郷に凱旋してプロ野球選手でなくなった。野球の神様は、イチローの汗と涙と、そのヒューマニズムに最高の花道を用意してくれていた。イチローは、ユニホーム姿のまま、東京ドームと地下通路につながっている東京ドームホテルに移動して午前0時前から記者会見を開いた。 それは「とことん応じる」と決めて臨んだ1時間23分にわたる異例のロング会見だった。 「僕おかしなこと言ってません? 大丈夫ですか?」 時折、ユーモアを交えながら200人以上のメディアの質問に真摯に答え続けた。 イチローは一度も引退会見にお決まりの限界という言葉を使わなかった。ノーヒットが続くキャンプ終盤の3月10日に引退を決意し、それをGMに伝えた。 引退の理由を「マリナーズ以外でやる気持ちがなかった」と言った。東京遠征のために28人枠に増えたロースターの枠が25人枠に減る27日には、イチローの場所はマリナーズになくなる。それはイチローにもわかっていた。若手にチャンスを与えるマイナーリーグにはさらに居場所はなく、野球を続けるための選択肢としては、他球団のオファーを待つか、独立リーグ、そしてNPBへのカムバックしかなかった。だが、イチローに「(日本復帰の考えは)なかった」。 ニューヨーク・ヤンキースへ移籍してから「クビになるんじゃないか、という思いがいつもあった」というイチローにしてみれば、特別な思いのあるシアトルにメジャーリーガーとしてプレーを続けるための椅子がなくなった時点で、引退を決意しなければならなかった。 「少なくとも50歳までプレーしたい」と公言してきた。それは言い換えれば「50歳までマリナーズでプレーしたい」ということだったのである。 「最低50歳までと本当に思っていた。それが叶わず有言不実行の男になってしまったが、その表現をしてないと、ここまでできなかったと思う。難しいかもしれないが、言葉にして表現することが目標に近づくひとつの方法」 イチローは、そう説明した。 イチローが愛する野球を通じて伝えたかったことは何だったのか。その一端は、異例の引退会見に垣間見えた。それは、日米の最高地点を極めたイチローだからこそ説得力を持って語れる人生訓であり、日本人の誇りであり、日米の野球界へのメッセージであった。 イチローは、昨年5月に試合に出る権利を失い、会長補佐という立場で、試合前練習だけを積み重ねてきた日々を「ひょっとすれば誰にもできない、ささやかな誇り」と表現した。 「野球を愛し続けたこと」を美学とするイチローが、その唯一の表現の場である試合に出れないのである。しかも、通算3089本安打のレジェンドが、試合前練習だけを普通に行うという奇妙な立場で、モチベーションを失わずに、45歳の肉体を維持していくことが、いかに壮絶な日々だったか。 孤高の天才は、決して日の当たる場所だけを歩いてきたわけではない。だからこそイチローの言葉は重たかった。 「自分の限界を知りながら少しずつの積み重ねでしか今の自分を超えていけない。一気に高みにいこうとすると、今の自分の状態とのギャップがありすぎて続けられない。地道に進むしかない。遠回りすることでしか本当の自分に出会えない」 そしてイチローは「成功という言葉は嫌い」と言う。 「(メジャー挑戦を)成功すると思うからやってみたい。それができないと思うからいかない。そういう判断基準では後悔を生むだろう。やりたいならばやってみればいい。できることから挑戦するんじゃなく、やりたいと思えば挑戦すればいい。それなら、どんな結果でも後悔はないと思う」 イチローらしい人生哲学である。