カヌー競技の先駆者【羽根田卓也】は、開き直りからの快挙で列強と戦える選手に!
男子カナディアンシングルのエースとして、5大会めの五輪に挑む羽根田卓也。日本にカヌー競技を知らしめた先駆者が、当時はまさに雲を掴むような話だったアジア人初のメダル獲得を達成し、世界の列強と肩を並べる存在となった一戦について語る。
2016年8月9日 リオデジャネイロ五輪 カヌー・スラローム 男子カナディアンシングル決勝
昨年のアジア選手権で優勝を果たし、パリ五輪出場を決めた羽根田卓也。カヌーの男子カナディアンシングルは最後の1枠を全アジアで争う厳しい戦いとなったがそれを勝ち抜き、5大会連続でオリンピックという大舞台に挑む切符を掴んだ。そんな羽根田が分岐点として語ってくれたのは、日本人初の銅メダル獲得という快挙を成し遂げたリオデジャネイロ五輪。アジア人が五輪のカヌー競技で表彰台に立つのは男女を通じてはじめてのことで、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた出来事だった。羽根田自身にとっても、決して平坦ではなかった競技人生の中で積み重ねてきたものが、ようやく実を結んだ瞬間だったという。 「僕にとって最初の五輪は2008年の北京でしたが、そのときは心のどこかで五輪に出場できたことで満足してしまっている部分があったと思います。加えて21歳という若年齢ということもあって経験と実力が備っておらず、本戦でいい結果を出せませんでした。その経験を経て挑んだロンドンでは五輪に出場すること自体にプレッシャーを感じることなく戦え、7位入賞という自分として胸を張っても恥ずかしくない結果を出すことができた。こうしたステップを踏めたからこそ、リオ五輪で表彰台に乗ることができたのだと思っています」 今でこそ羽根田の快挙によってカヌー競技自体が日本で認知されているが、当時は競技も選手も一般的にはほぼ無名。加えてカヌー競技の世界においても、アジア人がトップ選手として活躍することなど考えられなかった時代だったという。 「僕は高校卒業と同時に、強くなりたい一心でカヌー強豪国のスロバキアに行っていたのですが、当時はアジア人が世界のトップに食い込もうとしていること自体がちゃんちゃらおかしいという空気感でした。そうした環境の中で実力をつけ、2016年のリオ五輪の前にフランスのポーで行われたカヌースラロームのワールドカップで3位に入賞することができた。アジア勢でははじめてのことだったので、そのこと自体がビッグニュースだったのですが、18歳でスロバキアに渡ってから28歳までカヌーに打ち込んできてようやく表彰台に立つことができた。というところだけでもなかなかの苦労だったと感じていただけると思うのですが、そのときに自分の中でも努力してきたことが結果として表れてきたことを感じ、これは実力を出せばもしかしたらリオ五輪でも結果を出せるかもしれない。そんな淡い期待を抱くようになっていました」 リオ五輪に挑むまではパフォーマンスも上がっていたが、実は試合直前になって体調面に問題が生じていたという。 「試合の前々日くらいから体調を崩し、自分では怖くて測れなかったのですが熱が出ていました。発熱で頭がボーッとしていて、五輪に向けてこんなに準備をしてきたのに万全の状態で臨めないのか……という状態だったのですが、試合前日に開き直ってしまったんです。その開き直りが、パフォーマンスにいい影響をもたらしてくれました。どこか自然体で挑めたというか、北京で初出場してロンドンで入賞し、次はメダルというプレッシャーも感じていた中で、その吹っきれた感覚があったことがすごくよかった。まさに怪我の功名。五輪のような極限の勝負になると、もうコンディションなんて誤差でしかなくて、最後は精神力の勝負になってくるんです。今思うと発熱からの開き直りがいい効果になって、もうジタバタしてもしょうがないという感覚から、いわゆるゾーンみたいなものに入っていたんじゃないかと思います」 表彰台に立った瞬間は、なにものにも代えがたい感覚が込み上げてきたという。 「スロバキアに行って10年経っていました。苦節や我慢という表現は好きではないのですが、電光掲示板に結果が表示された瞬間は努力がすべて報われたという感覚で、その結果によって競技自体の注目度や環境も大きく変わりました」 そんな体験を経て5度めの切符を掴んだパリ五輪は、どんな思いで挑むのか。 「カヌーは、技術と経験が8割以上生きてくる競技。世界のトップ10の半数以上が僕と同年代です。僕自身、ベテランに近づく中で表彰台を狙って戦う一方、限界に挑戦して戦う姿をより多くの人に見てもらえるように表現していきたい。アスリートが挑戦する姿に見る人が突き動かされ、それをなにかしらの形で人生に反映していく。それができることがスポーツの素晴らしさだと思うので、僕の軸として外してはいけないと思っています」