【パリオリンピック高飛び込み】17歳の玉井陸斗が日本史上初めて掴んだ五輪メダル 馬淵崇英コーチの積年の思いの結実とさらなる夢
【崇英コーチの30数年越しの夢の結実】 メダルが確定すると、玉井はガッツポーズをしながら喜びを爆発させたが、それ以上に感激して涙を流していたのは、崇英コーチだった。 「もう本当に長い間......30何年間をかけてやっとメダルを獲れた。陸斗にメダルをかけてもらい、長い間、恋人のように追いかけて、追いかけてきたメダルと、やっと正式に結婚できたという感じで、本当に最高の瞬間でした」と感慨深く話す。 崇英コーチが続ける。 「日本協会の飛び込み関係者や、応援してくれた方々にとっても悲願というか、特に(馬淵)かの子先生(日本飛び込み界の先駆者)には電話を入れましたが、もう感動で言葉が出ないぐらいだった。私だけが夢を追いかけてきたわけではなく、かの子先生も60~70年間、夢を追いかけてきて、それを私が託されてきた。そして、私から寺内健や次の選手にも、陸斗にも(夢を)託して、やっと獲れた。このメダルの重みとメダルの価値は、もうこれ以上ないぐらいです。 残るは金メダルだけだけど、今回も金を獲る余力を残しながら計算どおり戦えたのではないかと思うし、金を獲る可能性は確信できたんじゃないかな、と。あと一歩、その目標は4年後の楽しみにできるのではないかなと思います」 オリンピックでのメダル獲得――それは、飛び込みの日本代表関係者のみならず、JSS宝塚の夢、崇英コーチの夢でもあった。 崇英コーチは飛込王国・中国で競技者の道を、20歳を前にして断念。若くして指導者に転身した。中国代表入りの話もあるほどのコーチになったが、ちょうど国の体制が改革・開放の時期だったこともあり、海外の大学でスポーツ科学を学ぶことを選択。それを中国に持ち帰りたいと考え、数カ国への留学を希望したうち、最初にビザが下りた日本に1988年にやって来た。 すると、日本語学校で日本語を学んでいた時だった。崇英コーチの来日を知った、JSS宝塚の馬淵かの子コーチから熱心な勧誘を受けた。そして1989年11月、コーチとして宝塚に行くことを決意した。 最初は、中国の環境とはまったく異なることに驚いた。そこには、板飛込の台しかない、狭いプールしかなかったからだ。クラブに通う選手たちも習い事のレベルで、素質の欠片さえ見えなかった。 崇英コーチは、かの子コーチから「日本トップクラスの選手を育ててほしい」と言われていたが、「どうせやるならそれ以上を」と内心で思っていた。しかしその現実を目の当たりにして、「世界を狙えるような選手がいなければ、飛び込みに固執することはない」という考えにも至っていた。 それが1991年の秋、当時小学5年生の寺内健と出会って考えが変った。その身体能力の高さと目つきを見て、「この子は厳しい練習にも耐えてくれる。オリンピック出場は間違いない」と直感的に思った。 それから、10年かけて彼を育てることを決意。高校1年生の寺内を1996年アトランタ五輪出場に導いた。さらにその後、1998年世界選手権の高飛び込みで寺内が5位に入賞。崇英コーチは日本への帰化申請をし、本気で五輪でのメダル獲得を目指すと決めた。 結局、その寺内は2001年の世界選手権3m飛び板飛び込みで銅メダルを獲得したが、6回出場したオリンピックの個人種目ではメダルに届かず、2000年シドニー大会高飛び込みの5位が最高成績だった。また、女子では東京五輪において、女子シンクロ高飛び込みで6位入賞を果たした板橋美波と荒井祭里らを育てたが、メダルには届かなかった。 それでも長い年月を経て、ついにパリ五輪で玉井が表彰台に辿り着いた。 「中国に追いつき、追い越すという思いでやってきたが、今回の試合をステップにして、中国選手以上の演技を作り出したいと思いました。陸斗の演技で世界を魅了したいという思いも強くなった。中国選手以上の綺麗さやジャンプの迫力、そういうものを次の目標として頑張っていきたい」 次なる夢へと思いを馳せる、玉井と崇英コーチ。ふたりの挑戦はロサンゼルスへと続いていく。
折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi