所信表明演説に込められた「石破政治」の方向性 石橋湛山氏の施政方針演説を2度引用、目指すは「小日本主義」か
【ニュース裏表 安積明子】 石破茂首相は11月29日に行った所信表明演説の冒頭で、1957年2月の石橋湛山内閣の施政方針演説の一節を引用した。次のような内容だ。 【比較してみる】若干フサフサに…。左が11月27日午後の石破茂首相、右が12月2日午前の姿 「国政の大本について、常時率直に意見を交わす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合わせるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍(ご)していくようにしなければならない」 鳩山一郎内閣の退陣を受けて56年12月23日に首相に就任した石橋氏は、石破首相と同様、自民党総裁選の決選投票で総裁の座を射止めた。1回目の投票で1位となったのは岸信介氏だったが、3位の石井光次郎氏と「2・3位連合」を組んで勝利したのだ。 しかし、翌57年1月に石橋氏は脳梗塞を発症し、2月に首相を辞任した。同月の施政方針演説と「私の政治的良心に従う」との辞任の書簡を代読し、臨時首相代理に任命されたのが岸外相(当時)だった。 岸氏は安倍晋三元首相の祖父である。岸政権では日米安全保障条約改定、安倍政権では平和安全法制(安全保障関連法案)が成立した。いわば「タカ派」の家系だ。 岸氏は戦前に満洲経営で辣腕(らつわん)を振るい、戦後は「A級戦犯」被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。植民地放棄や平和外交、自由貿易による「小日本主義」を主張する石橋氏とは相いれない存在といえた。 にもかかわらず、石橋氏が岸氏を重用せざるを得なかったのはなぜか。総裁選1回目の投票で、岸氏が1位となった党内事情を配慮したためだろう。 冒頭で述べた施政方針演説の一節は、石橋氏の後継を狙う岸氏を「名宛人(=受取人として指定された人)」として念頭に置いたものではなかったか。 では、石破首相が、石橋内閣の施政方針演説を引用した意図は何か。石破首相は、所信表明演説でこう語っている。 「先般の選挙で示された国民の皆さまの声を踏まえ、比較第1党として、自由民主党と公明党の連立を基盤に、他党にも丁寧に意見を聞き、可能な限り幅広い合意形成が図られるよう、真摯(しんし)に、そして謙虚に、国民の皆さまの安心と安全を守るべく、取り組んでまいります」 文言からは、名宛人は「野党」だと理解するのが一般的だろう。