【卓球選手のセカンドキャリア】元日本代表、荻野博之「凝り性だけど、卓球をやめた時にソムリエになるなんて考えもしなかった」
荻野博之「卓球で養った集中力はソムリエとしての勉強や仕事でも活きましたね」
東京の立川市のフジミクラブで卓球を始めて、青卓会に入った後に、フジミクラブに戻り、全国中学校大会では齋藤清(のちに全日本チャンピオン)に敗れて3位。高校は熊谷商高に進み、インターハイ2位。中央大3年の時に世界選手権東京大会の日本代表として出場して、実業団では川鉄千葉でプレーし、その後、実家の酒屋を継いだ。ワインの勉強をし、2003年ワインアドバイザー全国大会で優勝。日本ソムリエ協会認定のソムリエ・エクセレンスの資格を持っている。 ◆ 小さい頃、体が丈夫でなくて、父に「何かやってみろ」と言われ、柔道は投げられると痛いから、剣道はたたかれると痛いからと避けて、卓球なら痛くないからと、家の倉庫の2階にあった卓球場で始めたのが小学4年。父がカットマンだった影響で自分もカットマン。私は運動能力が全くなく、大学の時でも「おまえは卓球以外だめだな」と言われてました。俊敏性もないし、パワーもなかった。スポーツとか勝負事に全く向いてなかった。 大学3年の時に1983年世界選手権東京大会の混合ダブルスの日本代表になりました。日の丸をつけるのは小さい頃からの大きな夢でした。ただ年齢がいけばいくほど自分の運動能力の限界を痛感しました。 卓球はこれ以上やっても難しいと思い、26歳の時に実家に戻り、酒屋を継ぎました。私が6代目です。最初は母方の親戚の酒屋で修行して仕事を覚えた。とは言え、その頃の酒屋は御用聞きのように注文をもらい、配達して、という仕事でした。大型店や、その後、コンビニでも酒を買えるようになって、辛い時代を迎えます。 その頃、知り合いから、「ワインの勉強をすれば将来必ず役に立つから、ワインスクールに通ったらどうだ」と勧められ、渋谷の「アカデミー・デュ・ヴァン」というワインスクールに通い始めました。その後、「エスポア」という酒屋のグループを知って、そこからワインの店に方向が変わっていきました。 酒屋に戻って10年くらい経ち、エスポアグループで、ソムリエの資格を取ろうということになり、同時にワインを直輸入するようになっていた。日本ソムリエ協会でソムリエと同格のワインアドバイザーの資格を取りました。 資格を取るために筆記試験、ブラインドテイスティングをします。ワインの外観、香り、味わい、ぶどうの品種、産地、ヴィンテージなどの勉強をして、資格を取ってすぐに2年ごとに開催されるワインコンクールに出たら、まぐれで決勝の5人に残ったんです。勘違いして、「おれはすごいんじゃないか」と思ってしまった(笑)。 そして4回目、2003年のワインアドバイザー全国選手権大会で優勝しました。一度優勝すると次は出られない。優勝は40歳の時でした。今はソムリエ・エクセレンスに認定されています。 ぼく自身は凝(こ)り性だけど、卓球をやめた時にソムリエになるなんて考えもしなかった。まだこれからも勉強しなければいけないと感じています。(談) [おぎの・ひろゆき] 1963年生まれ、東京都出身。立川一中で出場した全国中学校大会3位、熊谷商高に進み、インターハイ2位、学校対抗2連勝。中央大に進み、大学3年で世界選手権の日本代表。川鉄千葉でプレーした後に、家業の酒屋を継ぎ、ワインアドバイザーの全国大会で優勝した。現在は東京都立川市の「エスポアおぎの」でワインを中心にした酒販店を営んでいる。現在、日本ソムリエ協会認定ソムリエ・エクセレンスの資格を有する