「キヨシが始めた物語、ついに完結」DeNA優勝の礎築いた中畑清、12年前の秘話「俺があの時監督に固執したワケ」
オリンピックを経験したからこそ
あのとき――。中畑がそう振り返るのは、'04年のアテネオリンピックだ。ヘッド兼打撃コーチを務めた中畑は、病に倒れた長嶋茂雄監督に代わり、代表チームの指揮を執った。 初めてオールプロで臨んだ大会で全勝での金メダル獲得を掲げたものの、結果は銅メダル。ベンチで采配を揮った中畑は大会中、まるで別人のように笑顔を失っていた。 「オリンピックを経験していなかったら、今回、DeNAの監督として今のように振る舞うことはできなかったと思う。あの一発勝負の世界の苦しみは想像を超えていた。四六時中、鳥肌が立っていて、熟睡なんてできない。予選から決勝戦まで全試合に勝って金メダルを獲らなければいけないというプレッシャーの塊に押し潰されていた。中畑清のよさが何も出せなかったんだ。 でも、あの勝つことだけが求めらる野球の苦しさを経験したことで怖いものはなくなったし、プロ野球の在り方についても改めて考えるようになった」 ただ、ひたすらに勝利だけが求められる日の丸を背負った戦いを知ったことで、逆にファンの存在なくしては成立しないというプロ野球の大原則に目が向いた。 「勝つことだけがすべてでいいのか。お客さんに喜んでもらえることはなんだろうなと。確かに勝つことはすごく大事だし、勝てば勢いがつく。しかし、それ以外の部分で見せられることもある。プロはファンに見てもらって、喜んでもらってなんぼ。その上で勝てれば理想だけど、そこまでの過程もすごく大切になってくる」
長嶋茂雄の言葉に後押しされて
アテネオリンピックでは、みずからの責任の所在をはっきりさせるために望んだ「監督代行」のポストを認められなかった。実直な男は心を乱すと同時に、監督という肩書に固執するようになっていた。 「自分で責任を取れることは喜びなんだと悟ったね。だから今回の話も、世間的には工藤(公康)との交渉が成立しなかったから、自分に話が来たように思っている人もいると思うけど、監督になるチャンスなわけだから全然、気にならなかった。それに東日本大震災が起きた年のオフに話をもらい、故郷の福島を元気づけたいとも強く感じた。 実は契約のことなどを会社ときちんと話したのは、監督就任会見を終えた後。契約より会見が先だったんだよ。条件面も事前にはまったく話さず、契約するときに初めて言われた。それだけ、俺は《監督》に飢えていたんだよ。 振りかえってみると、DeNAへの球団売却が決まったとき、俺は長嶋さんに会っていたんだよ。そのときに長嶋さんから『(監督は)おまえしかいない』と指名されたんだ。俺は笑いながら『ありがとうございます』と言っただけだったけど、それがその後、現実となった。契約後に長嶋さんに報告しに行ったら満面の笑みを返してくれたよ」 当時「日本一の弱小球団」と呼ばれていた横浜ベイスターズ。そこに熱血指揮官が加わり、新たな《DeNA》が組み込まれた。 後編記事『「一番力のないDeNAだからこそ、一番優勝のチャンスもある」DeNA初代監督・中畑清、12年前に予言していた「日本一へのシナリオ」』では、26年ぶりに日本一を成し遂げるほどの躍進ぶりの礎となった、中畑流の「監督論」を紐解く。 ※この記事のインタビュー全文は『週刊現代 2012年 2月18日号』「愛すべきオッサン 中畑清 元気出していこうぜ」(取材・文/鷲崎文彦)を再編集したものです。
週刊現代(講談社・月曜・金曜発売)
【関連記事】
- 【つづきを読む】「一番力のないDeNAだからこそ、一番優勝のチャンスもある」初代監督・中畑清が12年前に予言していた「日本一へのシナリオ」
- プロ野球で「もっとも愛された監督ランキング・ベスト30」9位新庄剛志、8位原辰徳…「アレのアレ」岡田彰布の「意外な順位」
- なぜ中日・立浪は「3年連続最下位」で終わり、西武・松井は「交流戦前の休養」に至ったのか…今季退任した監督たちの「強烈だった指導」「ヤバすぎる采配」
- 「実は10年かかると思っていた」《6年連続最下位チーム》を劇的に再建…!横浜DeNAベイスターズ元スカウト部長・吉田孝司氏が語った「再建の舞台裏」
- 大谷翔平「二刀流」来季に完全復活か…!届かなかった大偉業「トリプル40」達成も夢じゃない