【追悼・渡辺恒雄氏】終生一記者を貫いた理由、元共産党員で戦争には断固反対、読売新聞「主筆」として何をしてきたのか?
「大連立」の仲介
政治記者として数々の特ダネをものにしてきた、渡辺氏にも「政局」感がすべて成功したわけではない。 参院選挙において、与党の自公が議席の半数を失って、与党の主要な法案や人事が通らなくなった2007年。自民党総裁・首相の福田康夫氏と、当時の民主党の代表だった小沢一郎氏がいったんは「大連立」で合意した。これを仲介したのが、渡辺氏だった。 「NHK・ニュースウォッチ9」のインタビューのなかで、当時を振り返った小沢氏は次のように語った。 「仲介役みたいなことをしてくれたのが、渡辺さん。一時代の政治記者を代表する人物、優れた人物だった」と。 「大連立」は、共産党が欧州のリベラル政権などに参加した際にとった戦術の「民主連合政権」を思わせる。つまり、共産党は日本でいえば、法務相や国家公安委員長などの司法、諜報機関のトップのポストをまず得て、連合政権の相手を徐々に取り崩す戦略である。
『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』は、第二章に「共産党活動 学んだ権力掌握術」の章を立てている。そのなかで、節として「党派抗争から学んだ権力掌握術」が見いだされるのは偶然ではない。 「共産党細胞というものは、秘密の中核組織だね。それを元にして、一人が100人ぐらいを動かす。東大に学生が1万人ぐらいいたと思うが、それを動かす。100ちょっとの新人会(渡辺氏が立ち上げた反共産党の組織)でひっかき回したね。一人が100人、200人という人間を動かして、1万、2万というやつに影響を与える。 これは集団指導術というか、共産党で学んで非常に役に立ったね。その後、至るところで組織をつくり、至るところで多数を制する。そういう技術は共産党から学ぶものが非常に多かったね」
戦争「反対」の言説続ける
最大1000万部の日本最大の部数を誇った、新聞社の経営者にして歴代の首相を掌に載せたかにみえる、渡辺氏が戦争には断固反対であってリベラルともいえる報道姿勢を貫いたことは、日本の世論が一色に染め上げられることを防いだ。このことは、渡辺氏が自民党の政治家に近いことから、読売新聞を読んでいない人が誤解している点ではないだろうか。 日本テレビ系の各局のニュース番組に対して、全国ニュースを配信している「日テレ NNN」は、渡辺氏の発言と映像を淡々と流してしのんだ。 「軍隊というところはひどい所で、栄養失調にはなるし、飯は食わしてくれんし。ただ、意味もなくひっぱたく。悪い意味の奴隷、ヤクザの社会でしたね」(2014年) 「日本人自身が“戦争責任”に対して歴史検証をしなければならない」(2006年) 渡辺氏の指示によって、読売新聞は戦後60年にあたる2005年から1年間にわたって、軍事指導者らの“戦争責任”について検証する報道をした。 『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』の渡辺氏のインタビューにもどりたい。学徒出陣の際に持参したのは、カントの『実践理性批判』だった。 「この『実践理性批判』の結語の冒頭だったわね。僕は、いつも自分の手帳に書き写した。『一生を考えて、いまだに敬意を表しているものが二つある。一つはわが上なる星の輝く空、一つはわが内なる道徳律である』」 「軍隊に行って死にに行くんだから、そういうときに一番の価値は『わが内なる道徳律』。これは上官や将校などの軍人になんかに分からん。俺だけが持っている心の価値である。それが死に対抗する」 「棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる」―蓋棺事定。渡辺氏の棺に蓋(ふた)がされるとはいえ、数え年で昭和100年を来年に控えて逝ったのは象徴的である。その評価が定まるまでには、まだまだ時の砂が落ちるのを待たなければならないだろう。
田部康喜