【追悼・渡辺恒雄氏】終生一記者を貫いた理由、元共産党員で戦争には断固反対、読売新聞「主筆」として何をしてきたのか?
主筆室に飾られていた、友人でもあった首相の中曽根康弘氏が渡辺氏の墓碑に書くために、揮毫(きごう)した書が映し出される。「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑」と。
「主筆」の椅子にこだわった理由
渡辺氏の生涯に影響を与えたのは、学徒出陣後に東大に復帰して入党した共産党の影響がある、と筆者は考えてきた。大学内の共産党の支部である「東大細胞」のキャップとなって、路線の違いから党に除名されるまで2年間を過ごした。 キャップは、約200人の共産党員の学生の頂点に立つ。戦後の世相のなかでは、労働運動や学生運動などのなかでは、仰ぎ見られる存在だった。 「東大細胞」の“同士”には、セゾングループの創始者である堤清二氏や、西友の実質的な創業者ともいえる、高丘季昭氏らもいた。 『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』の記述によると、渡辺氏が共産党に違和感を抱いた理由を明らかにしている。 「共産党本部の玄関を入ったところに大きなビラが貼ってあって、『党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ』と書いてあるの。俺は軍隊が嫌いだからやってきたのに、共産党も軍隊かと思ったね」「(カスリーン台風・47年)相当被害が出て、多くの人が死ぬんですよ。そういう時に党の東大細胞の会議があって、そこに中央委員が来て演説する。『もし全国民がこういう被害で飢えれば、人民は目覚める。共産主義者になる。人民の目を覚まさせて共産主義にするのには、人民が飢えたときでなくては駄目なんだ』」と。 いわゆる「窮乏化理論」つまり、人民が窮乏化するほど革命が起きるという共産主義の理論である。渡辺氏はこれに嫌気がさして脱党を決める。 青春時代に洗礼を受けた思想、信条から抜け出すのは容易ではない、と筆者は考えている。筆者に先行する“団塊の世代”は、卒業とともに当時流行っていた長髪をきれいさっぱりと散髪して、企業戦士となって学園をあとにした。しかし、マルクス主義の洗礼を受けた人のなかには、いまだにさまざまな反権力、反対運動に加わっているひともいる。 渡辺氏が最後までこだわった「主筆」の椅子は、ある意味で社論を渡辺氏が牛耳る。つまり、独裁ともいうべき地位である。共産主義における「民主集中」の原則つまり最終的にはひとりが決定をくだす組織原理と同じではないだろうか。