『キングダム』にも登場する、秦王母の愛人「嫪毐」は、本当はかなりの実力者だった
嫪毐の出自は趙と関係しているという説も
嫪毐の出身は不明であるが、『史記索隠』に引く『漢書』では「嫪毐氏は邯鄲に出ず」とある。この文章は『漢書』にはないが、『史記』南越列伝には南越王第三代の嬰斉(えいせい=趙氏)が「邯鄲の樛氏の女を取り」、子の興(こう)が四代の南越王であるとし、その『史記索隠』に「摎姓は邯鄲に出ず」とあるのと同じものであろう。南越国とは、始皇帝のときに百越との戦争で百越に送られた趙佗(ちょうた)が、秦が滅んだときに南越を国号として独立した国である。 嫪毐の出自が趙と関係があるとすれば、趙国に近い山陽と泰原の占領郡を封邑にした理由もそこにあるかもしれない。呂不韋が封邑として周の旧都の一つの雒陽を選んだことに共通する。秦国の政権の中枢にありながら、封邑の国を自分に縁のある函谷関外の占領郡 に置いたことになる。自分自身が政権から失脚したときの延命のためというよりは、秦の政治を対六国とのかけひきで動かしていくために必要であったのであろう。 泰原郡という趙国の領土を奪って置いた占領郡を、嫪毐は自分の封邑として取り込んだ。嫪毐の乱において嫪毐側に従った舎人のなかに爵位を奪われて蜀に流された者が四千余家もあったということには驚かされる。かれらは秦都咸陽に入っていたわけではなく、嫪毐の封邑の泰原郡に入っていたのであろう。嫪毐の泰原国の舎と泰原郡の舎は別にあったはずである。 嫪毐が処刑された後は、泰原郡は対趙国戦略の前線基地、重要な占領郡として機能していった。嫪毐と呂不韋の遺産である泰原郡と三川郡は、二人の死後、対東方戦略で大きな役割を果たしていくのである。 *** この記事の前編では、同じく『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)より、大王・嬴政最大の政治的ライバルとして描かれる「呂不韋」が残した偉大な功績について解説している。
【著者の紹介】 鶴間和幸(つるま・かずゆき) 学習院大学名誉教授(中国古代史)。1950年生まれ。東京教育大学文学部卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は、始皇帝をはじめとする秦漢史。『人間・始皇帝』(岩波新書)、『始皇帝の愛読書』(山川出版社)など著書多数。映画『キングダム』の中国史監修や、兵馬俑展の監修なども務める。 デイリー新潮編集部
新潮社