『キングダム』にも登場する、秦王母の愛人「嫪毐」は、本当はかなりの実力者だった
嫪毐は嬴政にハメられた?
しかしながら成人を迎えた秦王嬴政が親政を行っていくには、相邦の呂不韋だけでなく嫪毐からも離れ、かれらを排除しなければならなかった。嫪毐が嬴政を成人の儀を行う予定であった旧都雍城の蘄年宮(きねんきゅう)で襲うという陰謀が密告され、秦王側が先手を打って都咸陽で嫪毐を攻めて激戦となったと伝えられるが、その実、秦王側の仕掛けた事件であったと思う。 この乱で、嫪毐側の兵士数百人が斬首された。秦人が六国の敵兵ではなく秦の人間を斬首し、戦時と同様、実行者に爵位まで与えたことになる。嫪毐らは逃走し、嫪毐を生け捕りにすれば100万銭、殺せば50万銭という懸賞金まで懸けられた。嫪毐ら20人の高官の首謀者は捕らえられ、梟首(きょうしゅ=市場でのさらし首)と車裂の極刑に処せられた。 嫪毐の一族にも死刑が及び、太后との間の二人の子も殺され、帝太后は雍城に幽閉された。嬴政には相邦の昌平君、昌文君が就いており、22 歳の嬴政一人の意志で事件が動いたとも思われない。 翌始皇10(前237)年には呂不韋が事件に連坐して罷免されているが、事件発生前後の嫪毐と呂不韋との関係は見えてこない。呂不韋列伝によれば、呂不韋と帝太后の男女の関係が発覚するのを恐れた呂不韋が、強壮の嫪毐を太后のもとに送りこんだという。それが遠因になったかもしれないが、『史記』の嫪毐像は、あまりにも漢代の偏見に満ちている。
本当の読み方は「ロウアイ」ではなかった?
嫪毐の毐の字は毒に似た字である。この文字を収めていない辞書も多いが、収めてある辞書の説明は、何とも不可思議である。現代中国語辞典では「人名に用いる。例えば嫪毐」とあり(『中国語辞典』白水社)、嫪毐以外の事例は示されていない。また「人名用漢字、嫪毐、(1)戦国時代秦の人(2)品行の悪い人」(『中国語大辞典』角川書店)というものまである。嫪毐に対する偏見から書かれており、嫪毐あっての毐の字ということになる。すなわち嫪毐の否定的人物像(疑似宦官で秦王始皇帝の母の愛人)だけの文字として説明している。 しかし長沙五一漢簡という後漢時代の簡牘には、毐は姓氏でも名前でも一例ずつ見られ、文字自体に悪い意味は見られない。唐の張守節の『史記正義』では、嫪毐(『大漢和辞典』でもラウアイと読む)には辞書にはない別の古い発音があったことに言及する。現代中国語でもラオアイ(Lào Ǎi)と発音するが、古い発音ではキウカイと読むという。こちらの発音の方が秦代の本来の発音に近い。発音には人物に対する偏見はない。 嫪毐への偏見を取り除くためにも、別の側面から見てみよう。秦の荘襄王の時代、荘襄王2(前248)年、蒙驁(もうごう)将軍は趙を攻撃し、泰原を平定し、趙の楡次(ゆじ=泰原の東)、新城、狼孟(太原の東北)など37城を取った。翌3(前247)年に初めて泰原郡が置かれた。泰原は現在でも山西省の中心、汾水のほとりにある省都であり、大都市である。2200年以上もその大都市の名が残り続けている。その基礎は秦の蒙驁将軍が作ったといえる。 始皇8(前239)年、嫪毐の乱が起こる前年に、嫪毐は長信侯に封ぜられ、山陽の地を与えられ、そこに居住した。山陽は黄河の北岸にあり、南岸の秦の占領郡の三川郡と東郡とに対面する。秦王(始皇帝)の母との関係をもとに権力を掌握した嫪毐は、汾水の流れる占領郡の太原郡もみずからの国とした。泰原郡の設置に功績のあった蒙驁将軍は始皇7(前240)年に世を去り、その翌年のことである。