近代日本軍初の国産拳銃【26年式拳銃】
かつて一国の軍事力の規模を示す単位として「小銃〇万挺」という言葉が用いられたように、拳銃、小銃、機関銃といった基本的な小火器を国産で賄えるかどうかが、その国が一流国であるか否かの指標でもあった。ゆえに明治維新以降、欧米列強に「追いつけ追い越せ」を目指していた日本は、これら小火器の完全な国産化に力を注いだのだった。 明治維新期の日本には、国内に近代銃器の製造能力が乏しく、欧米列強で製造された小火器を購入して使用するしかなかった。しかし維新がなしとげられると、さまざまな技術が欧米から導入されて日本は急速な進歩を遂げた。 かような状況下、国軍の制式小銃については喫緊の国産化が求められた。だが補助兵器でしかない軍用拳銃の研究は遅れていた。しかし拳銃は、パーツが小さく高い加工精度が求められるため、その開発と生産には相応の高い技術力が必要だった。つまり日本が技術面で欧米列強と伍するには、軍用拳銃の国産化は必須といえたのだ。 こうした事情により、フランスからシャムロット・デルヴィーニュM1873ミリタリー・リヴォルヴァーを入手し、国産軍用拳銃の研究が始まった。そしてM1873、アメリカのスミス・アンド・ウェッソン社製モデル3リヴォルヴァー、ベルギーのナガン・リヴォルバーの設計を組み合わせて、1896年に26年式拳銃が誕生した。 26年式拳銃は、トップブレイク(中折れ式)で装弾数6発の全弾を一挙に装填することができる当時の国際水準の構造を備えていたが、作動方式がダブルアクションだけとなっていた。実はダブルアクションは、引金を引くのに力が必要なため発射前に銃のブレを起こす可能性が高く、シングルアクションに比べて精密な射撃には向かないとされていた。 にもかかわらず、ダブルアクションだけにされたにはそれなりの理由があった。当時の日本軍は拳銃の使用を白兵戦や騎兵突撃のような近接戦闘時と考えており、連射性は重視していたが、遠距離の15mを越える射撃時の精度をことさら求めなかったこと。さらに構造の簡略化で生産工程と製造時間の短縮化を図ったことだ。 26年式拳銃は、日本初の国産軍用拳銃だったが、堅牢で信頼性に富んでいた。唯一の弱点は、本銃のために開発された弾薬が弱威力だったことだろう。本銃用の9mm26年式拳銃実包のマズルエネルギーは79ft.lbf。これに対して、ほぼ同寸で同時代のアメリカの38S&W弾は、185ft.lbf~と、倍以上のマズルエネルギーを備えている。 とはいえ、戦場での拳銃はあくまで護身用などの補助兵器であり、苛酷な環境下でもトラブルなく使用できることが第一と考えれば、弱威力は二の次の問題といえる。 なお、26年式拳銃は約60000挺が生産されたといわれ、太平洋戦争終結時まで一部で使用が続けられていた。
白石 光