伊予宇和島地主の息子が石炭商から船舶王へ大ジャンプ 山下亀三郎(上)
「石炭などやるよりも、是非、船をやりたい」
山下が、船舶とかかわりを持つようになるのは1891(明治24)年、横浜で石炭商を始めるときだ。外国航路の大型船が出船、入り船、雄姿を見せつける。漠としたあこがれから、ぜひ船を持ちたいと思うようになるのは、日本郵船の土佐丸が欧州航路に就航し、華々しい見送りを受け鹿島立ちする姿に接したときである。 「自分も他日、男になったら、自分の船を持ってロンドンと横浜の間をつないでみせる」と思うようになる。 船にあこがれる山下の心を一層かき立てる1つの“事件”が起きる。石炭商も軌道に乗り、門司から600トンの石炭を横浜港へ運ばせたときのことだ。本船が横浜に着くと、回漕業者から1トン当たり1円20銭、600トンで720円の船貨を請求される。山下は石炭代金から船貨を差し引けばいいと思っていたから、あわてて金策に走る羽目となる。そして野心に火が付く。 「運んだ運賃を荷物を渡す前に先取りするなんて、こんな小気味のいい話はない。石炭などやるよりも、是非、船をやりたい」と船願望は燃えさかる。そして、念ずれば花開くとか。 4年後、1903(明治36)年、夢がかない、3000トン級の船を手に入れる。郷土にちなんで「喜佐方丸」と名付ける。時に亀三郎、36歳。少し遅い旅立ちである。が、これから日露戦争、欧州大戦という2つの大戦をバネに亀三郎の大躍進ドラマが始まる。 その年の暮れ、門司へ金策に行っていたとき、幸運のウナ電(至急電報)が飛び込む。喜佐方丸を政府が海軍の御用船として使いたいという通知だった。 この時、喜佐方丸は三井の石炭を積んで肥前から上海に向けて出航する間際だったが、山下は急きょ、横浜に向かわせ、石炭を降ろして、横須賀で海軍に引き渡すハラである。が、山下の思惑通り、ことは運ぶのか。 =敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■山下亀三郎(1867-1944)の横顔 1867(慶応3)年、伊予宇和島の近く喜佐方村(北宇和郡吉田町→宇和島市吉田町)に生まれた。富裕な地主の家庭で育ち、16歳で郷里を飛び出し、京都で1年半ほど小学校教員のあと、上京。明治法律学校(明治大学の前身)に学ぶかたわら、私立学校の教師などをやった。22歳で大倉洋紙店に入り、1891(同24)年、横浜で石炭商を始める。1896(同29)年ころ、日本郵船の土佐丸がヨーロッパに向けて就航する姿を見て船にあこがれ、同36年3000トン級の船を手に入れ、喜佐方丸と命名する。日露戦争、欧州大戦を経て山下の躍進は続き、昭和初めには所有船、傭船含めて89万9000トンと日本郵船、大阪商船を上回る船舶王となる。