〈小泉今日子と中森明菜の“アイドル伝説”〉キョンキョンのお尻のぬくもりに触れて今日まで仕事を続けてこられた! 「おたく」の生みの親・中森明夫が語る
アイドルにおける“結婚”という難題
事件から5か月後、明菜は近藤真彦と同席して〝お詫びと復帰表明〟記者会見を開いた。それは大みそかの夜、紅白歌合戦の放送中にテレビ朝日の終夜討論番組を中断する形で報じられた。 89年12月31日―そう、中森明菜がデビューしてアイドルとして活躍した1980年代の最後の夜であったのは、あまりにも暗示的だ。 だが、「十年遅れの山口百恵の物語」が頓挫した時からこそ、真に「中森明菜の物語」は始まるのであって、死と引き換えにしてさえ完結することのなかった物語が破綻して後、彼女自身が誰のものでもない自らの物語を紡ぎ始めることを表明したその夜(の記者会見)こそが、実は「繰り返された70年代の物語」の真の意味での終わりだったのではなかろうか?(同前) このように総括して、私は明菜にエールを送った。しかし、どうだったろう? その後の彼女の軌跡を見る時、はたして真に「中森明菜の物語」が生きられたと言えるだろうか? 前章(注釈:『推す力』第二章)で説いた〝芸能界の女王〟の生き方─美空ひばり、山口百恵、松田聖子─頂点に輝いた彼女たちには、明らかな〝結婚〟というアポリア(難題)があった。 そこが男性芸能人とは多少なりとも違う。本来は祝福されるべき〝結婚〟が、女性芸能人にあっては困難や桎梏として立ちはだかるのだ。昭和末の女王・中森明菜にとっても、それは大きな難関だったように思う。 その後の彼女は芸能活動の休止と復活を繰り返した。所属事務所やレコード会社を転々とし、体調不良や仕事面での不調ばかりが醜聞的に報じられる。やがてテレビで見かけなくなり、現状が不明となった。その軌跡はあまりにも痛々しい。ちなみに数多くいた82年組の女性アイドルたちの中で、唯一、中森明菜だけが一度も結婚していない。
これまでのアイドル像からかけ離れたキョンキョン人気
続いて、小泉今日子である。小泉は当初、あまたいる82年組アイドル、松田聖子フォロワーの一人にすぎなかった。 彼女が頭角を現すのはデビュー翌年、5枚目のシングル『まっ赤な女の子』のスマッシュヒットによってだ。髪をショートにしてイメージチェンジした。同曲を主題歌にしたドラマ『あんみつ姫』に主演して高視聴率を獲得、注目されてもいる。けれど本格的なブレークは、84年の9枚目のシングル『渚のはいから人魚』のヒットによってだろう。 当時、彼女は事務所に無断で頭髪をカリアゲにして、周囲を慌てさせたという。しかし、この一件がアイドルとしての真価を発揮する第一歩となった。大人の操り人形ではない、独自の主張と行動を実践する。 それは定型的なアイドルの枠をはみ出し、鮮烈でファッショナブルでセンスに満ちていた。女性アイドルとして初めてファッション雑誌「an・an」の表紙を飾りもした。自身を「コイズミ」と呼び、やがて「キョンキョン」と呼ばれ、ついには「KYON2」となる。ポストモダン・ブームの80年代半ば、「KYON2」という記号は時代の先端のアイコンとなってゆく。 それを決定的にしたのが、85年の『なんてったってアイドル』の大ヒットだろう。アイドルがアイドルであることを遊ぶ、メタ・アイドルソングだ。作詞は秋元康。この一曲によって、小泉今日子は80年代アイドルブームの頂点に立った。 その年、私は25歳だった。フリーライターである。サブカル雑誌やアイドル雑誌に原稿を書き飛ばしていた。何の拍子か、そんな私に本の出版の話が舞い込む。あまりにも突然のことだ。 同世代のライターらと3人で1冊の本を作ってほしい。締め切りは……3日後だという。3日後!? 唖然としている間もなく、赤坂プリンスホテルのスイートルームに押し込まれた。 週刊誌ならぬ、週刊本という企画である。毎週、著名人の語り下ろしをザラ紙のペーパーバックで出版していた。予定していた著者がトンズラして、ラインナップに穴があく!? 急遽、出版まわりでワサワサしていた無名の若手ライターの私たちが召集されたという次第である。 なんでもいいから喋ってくれ、と泣きつかれた。さあ、大変。喋った、喋った。喋っては、テープ起こしが届き、赤入れをして、喋っては、テープ起こしが届き、赤入れをする。2泊3日……ではない。0泊3日だ。3日間、一睡もせず。ぶっ倒れそうになった。 それにしても、こんなものが本になるのか? 本にしても大丈夫なのか? あまりにもハチャメチャな若者放談だ。せめて何かこう……本のテーマはないのか?