回転レシーブで一世を風靡した「東洋の魔女」 松村好子さん「青春そのもの。人生に輝き」 1964年東京五輪から60年
今から60年前の1964年10月10日、秋晴れの東京・国立競技場で東京五輪の開会式が行われた。航空自衛隊の戦闘機「ブルーインパルス」が上空に五輪マークを鮮やかに描き、世界で初めて衛星中継が実現した大会になった。 【写真】女子バレーボールで金メダルを獲得し、大松監督と記念撮影する「東洋の魔女」のメンバー 日本は体操やバレーボール、柔道などで16個の金メダルを獲得。アジアで初めて開催された「スポーツの祭典」に国民は熱狂し、街頭テレビには大勢の人が群がった。戦後日本の復興を世界にアピールするとともに、高度経済成長の象徴となった。 ■防御こそ最大の攻撃 東京五輪で話題を集めたのが「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボール女子だった。ソビエト連邦(現ロシア)を破って金メダルを獲得した決勝戦は、テレビ視聴率がスポーツ中継史上最高の66・8%を記録。当時のメンバーで、レシーブの名手だった松村(現姓・神田)好子(よしこ)さん(82)=大阪府枚方(ひらかた)市在住=は「東京五輪は青春そのもの」と懐かしむ。 大日本紡績貝塚工場の単独チームだった日本女子は1960年世界選手権で、ソ連に次いで銀メダルを獲得。「打倒ソ連」に向けて大松(だいまつ)博文監督が考案したのが、後に代名詞となる「回転レシーブ」だった。 柔道の受け身のように肩から入ってクルクル回りながら、ボールの下に手を入れる練習を繰り返した。松村さんは「私は若かったから最初に習得できたけど、腰に座布団を巻いて練習する人もいましたね」と振り返る。大松監督の「防御こそ最大の攻撃」という指導の下、監督が打つ球を拾い続けた。 欧州遠征で連勝を続け、海外メディアから「東洋の魔女」と呼ばれるようになっていたチームは62年世界選手権でソ連を倒して金メダル。悲願を達成し、「私たちも大松先生もそこでやめるつもりだった」。 ただ、帰国後、女子バレーが東京五輪で採用されるニュースが飛び込んできた。「五輪がどういうものかも理解できなかったけど、バレーと柔道が採用されて金メダルが期待されることだけは分かった」という。 チームには「東京五輪まで続けて」との手紙がたくさん届いた。なかなか覚悟を持てずにいた中、「(最年長の)河西(昌枝)さんが最初にやりますと言ったので、みんなやることになった」と振り返る。