万博が開催地に残したものとは これまでの万博を古市憲寿と振り返る
目前に迫った、2025年の大阪万博。 開催地問題など様々な議論が巻き起こったが、2025年の一大イベントとして準備は進んでいる。 これまでの歴史的な万博を振り返りながら、古市憲寿と開催の意義を考えよう。 (※この記事は『昭和100年』から抜粋・編集したものです。)
地上最大のもったいない行事
万博とは期間限定の祝祭である。会期が過ぎると、ほとんどの建物は撤去され、祝祭は過去のものとなる。 「ミスター万博」とも称された堺屋さかいや)太一(たいち(昭10)(注1)によれば、万博は「聖なる一回性」という理念こそが重要だという(注2)。たった一度きり、そこでしか開催されないからこそ、非日常のイベントとして万博は価値を持つというのだ。 堺屋太一は元通産官僚で、1970(昭45)年の大阪万博の立役者でもある。その後も沖縄海洋博、インターネット博、愛知万博など、何かにつけては万博に絡み続けた文字通りの「ミスター万博」なのだ。 堺屋曰く、万博は「地上最大の行事」である。数週間で終わるオリンピックと違い、会期は6ヵ月にも及び、入場者数や投資金額など、他に類を見ない「真に偉大な行催事」だ。その「地上最大の行事」でありながら、「聖なる一回性」という点が、一部の人が万博にロマンを感じる理由なのかも知れない。 (注1) 揶揄された、とも言う。 (注2)堺屋太一『地上最大の行事 万国博覧会』光文社新書、2018年。 たとえばアメリカのネバダ州で開催される「バーニングマン」は、砂漠の中に1週間だけ「街」が現れる祝祭だ。その神秘性に惹かれて、世界中から数万人を動員し続けている。 だがバーニングマンと万博ではわけが違う。期間や規模はもちろんだが、何より万博には公金が投入される国家的な行事だ。バーニングマンのように変人が勝手にお金を落とすイベントとは事情がまるで異なる。 高度成長期であれば「聖なる一回性」も許されたのかも知れない。大量生産と大量消費の時代は、当然ながら大量廃棄も許容される。 しかし時代は変わり、SDGsが持てはやされる世界になった(注3)。持続可能性が重視される社会と万博というのは非常に相性が悪い。大量の資源を用いて都市改造を断行し、会期後にはことごとくパビリオンを破壊する万博など、SDGsの観点から言えば愚の骨頂ともいえるイベントだ。何とももったいない(注4)。 実は万博もこうした批判に無頓着だったわけではない。早くも1992(昭67)年には「ハノーファー原則」が作成され、来るべき万博は環境に配慮した持続可能なイベントであるべきだと提言していた。