「景色が大きく傾いた」106歳の現役理容師、強烈な印象残る100年前の大震災 #災害に備える
「大勢の人が焼け死んだらしい」
近くの丘の上から南の方角を見たという人が、こんなことを言っていた記憶がある。 「東京の辺りが赤くなっている」。東京では地震後に大火災が起き、大勢の人が巻き込まれて亡くなった。 その惨状が伝わったのは5日ほど後。周囲の大人たちの話題が震災一色になった。口々に「東京が大火事になったそうだ」「大勢の人たちが焼け死んだらしい」「かわいそうに」などと話している。 小さかった自分は会話に入れてもらえず、「あっちに行ってなさい」と言われた。「あまりに残酷な話が多いので、子どもには聞かせたくなかったのだろう」 それでも、大人たちの表情や口ぶり、いつもとは違う両親の雰囲気から、恐ろしいことが起きていることは分かった。その後も話題は震災ばかりだった。 「集落にはまだ電気もなく、ラジオもなかった。新聞や役所から伝え聞き、被害の全体状況を知るまでに1~2年かかった」
空襲警報が鳴る中、お客さんの髪を切った
シツイさんは14歳で上京し、理容店で修行した。16歳、満州事変があった年に理容師に。22歳の時、同じ仕事をしていた夫と結婚。それを機に新宿で2人の店を開いた。 夫婦とも腕は良く、お客さんが連日訪れて繁盛し、遅くまで働いた。1940年に長女が、43年には長男が生まれた。戦争が始まったものの、生活は順調だった。 東京は1942年以降、米軍機による空襲を何度も受けた。あまりにも頻繁だったため、人々の感覚は次第に麻痺。空襲警報が鳴ってもお客さんはあまり逃げなくなった。 店は相変わらず忙しく、警報が鳴ると、片手で座布団を子どもの頭にかぶせながら、お客さんの髪を切ったこともある。 「爆弾があちこちに落ちても、どこか他人ごとのように思えていた」。米軍機が落としていく焼夷弾の強烈な光を見て、不謹慎とは知りつつ「七夕みたいにきれい」と思った。 しかし、家族4人の幸せな日々は暗転する。夫に召集令状が届いた。
招集、むせび泣く夫
シツイさんが今も鮮明に覚えているのは1944年7月、夫が入営する日のことだ。 見送りのため大勢の人が店の前に集まったのに、夫は家の2階から降りてこない。「どうしたんだろう」と見に行くと、夫は2人の子どもをぎゅっと抱きしめ、鼻水を垂らしながらむせび泣いている。声をかけることができなかった。 どれくらい時間がたったか覚えていないが、ようやく降りてきた時には涙は拭いていた。 見送りの風景も、当時は様変わりしていた。戦争が始まった当初はバンザイをしたり、軍歌を歌ったりしたが、夫の時は常連客ら約50人が目白駅まで静かに歩いて見送った。 「当時はもう、ほとんどの人が戦争に負けると、何となく分かっていたんだろうと思う」 家族は見送りについて行かない予定だったが、幼い長女が、歩き始めた父親のところへ走って行く。夫は手を合わせて「頼むから、家に帰ってね、送られるとつらいからね」とさとす。すると、パタパタと小さな足音を立てながら走って戻って来たが、またすぐに夫の元に走って行ってしまう。それを何度も繰り返した。