昭和47年生まれの私 歌手・女優、西田ひかるさん 帰国子女が見た昭和「欽ドンの世界」 プレイバック「昭和100年」
神奈川県で生まれましたが、父の仕事の都合で生後10カ月で渡米し、13歳までカリフォルニア州で過ごしました。でも毎年夏と冬には祖父母宅へ帰り、いとこらと一緒にテレビを見たりして過ごしていたので、子供の頃の「昭和」はテレビで見た世界が中心です。 大好きだったのは萩本欽一さんのバラエティー番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」(フジテレビ系)。日本のお茶の間はちゃぶ台があってこんな雰囲気なのかとか、日本の一般的な学生は、「良い子」役のヨシオみたいな感じなんだとかインプットしていました。米国で教育を受けていたので、日本語の漫画や本を読むのは得意ではなく、ドラえもんやサザエさんもテレビで見るばかりでした。 日本で夏にプールに行くと、子供はみんな紺の水着に白い帽子という格好。通っていた米国の学校ではプールの授業でみんなカラフルな水着を自由に着ていたのでショックでした。日本の制服とか体操服も米国の公立学校にはなく、すごく違和感がありました。 子供心に一番衝撃だったのは日本のトイレです。祖父母の家のトイレは当時まだ水洗ではなく、汲(く)み取り式で…。米国は水洗が当たり前で、トイレットペーパーも備え付けでありました。でも、日本は公衆トイレも汲み取り式で、紙を持参する場合が多かった。オイルショック後の紙が貴重な頃で、ちり紙交換の車が走っていましたが、初めてちり紙交換(の車)を見たときは「なんだろー?」って感じでした。今考えるとエコな取り組みですよね。 ■西宮市に住んで18年「日本ナイズドされた」 帰国したのは昭和60年、日本でいう中学2年の頃です。都内のアメリカンスクールに電車で通いました。米国時代は母親に車で送り迎えしてもらってたのが、満員電車に毎日押し込まれる生活に変わりました。私服にサンダル姿で通っていたので、周りの学生やサラリーマンから「あの子、ちょっと違う」という目で見られていたと思います。 芸能活動は昭和63年、15歳から始めました。バブル絶頂期で芸能界も元気でパワフル。コンプライアンスなんて言葉がなく、みんな周りのことを考えるより「何かを作りたい」という勢いがありました。ドラマ撮影も連日夜通しで、作品づくりにこだわっていました。眠くて大変でも「そんなの当たり前」という感じが面白かったです。