頭上飛び去る米軍機「飛行士の顔はっきり見えた」長野空襲を語る集い
8月15日の終戦の日を前に13日、「長野空襲を語る集い」が長野市内であり、80代の男性らが「戦争の記憶を次世代に伝えたい」と体験を語りました。集いは長野市民らによる「長野空襲を語り継ぐ会」主催で今年で34回目。市民や夏休み中の学生らなど約80人が悲惨な空襲の様子に耳を傾けました。 【動画】元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
8月13日朝、47人が犠牲
長野空襲は終戦2日前の1945(昭和20)年8月13日、米空母の艦載機などが5度にわたり長野飛行場や長野駅、機関区などを機銃掃射やロケット弾で攻撃。被害は松代など周辺地域にも及び、47人が犠牲になりました。 同会による空襲の概要説明の後、小林信義さん(84)=同市篠ノ井=が、空襲体験を語りました。当時、小林さんは国民学校6年生。当日は快晴で暑く、迎え盆の日でもあったため、4年生以上の児童が出征兵士の留守家族の墓地の草取りと清掃の勤労奉仕に向かう予定でした。
●バリバリと機銃掃射
朝食を済ませたところで聞き慣れないエンジン音が響き、一列編隊で北から南に向かう10数機の飛行機を目撃。機体には米軍機のマークが見え、次の瞬間、大きな爆発音が連続して響き、「バリバリ」という音の機銃掃射やロケット弾攻撃が始まりました。家の柱時計は午前6時55分を指していました。 「どこが攻撃されているかさえ分からず、長野駅からは空襲警報のサイレン。黒煙の立ち上る方向から、空襲を受けているのは長野飛行場だと分かった。その段階でもラジオで空襲の放送はなく、おそらく報道管制が敷かれていたのでしょう」と小林さん。
●姉と稲田で米軍機に遭遇
すると、空襲を恐れて1歳半の娘とともにわが家に避難していた長姉が突然、「近くの浄水場の公舎の自宅までリヤカーを引いて一緒に行ってくれと言い出したのです」。浄水場が攻撃されれば公舎にある大麦1俵が失われるから、実家のこの家で預かってほしいとのこと。母も承知し、姉と私の2人でリヤカーを引いて出ました。 公舎に着いて大麦をリヤカーに積んだものの、帰り道で思わぬことが。「姉が引き、私が押すリヤカーに米軍戦闘機のグラマンが右後方から接近してきたのです。周りは一面の稲田で隠れる場所がない。大声で危険を知らせると姉はどういう訳かリヤカーを早足で引き始めた。グラマンの高度は50~60メートルの超低空。機銃掃射を受けるのを覚悟しました」。