衆院選は股裂き状態「連合」と政治の関係は 坂東太郎のよく分かる時事用語
旧総評と旧同盟が大同団結して誕生
本来、労組は経営者との経済闘争を目的としているので、政治活動へ踏み込むのは論議があります。ただ日本では目的完遂のため政治活動にも力を入れてきました。中央組織としては、1950(昭和25)年結成で日本労働組合総評議会(総評)が日本社会党を、同党から60年に分離した民主社会党(69年から民社党へ改称)を日本労働組合総同盟(同盟)が支持してきたのです。総評には官公庁系の労組が、同盟には民間企業系の労組が加盟しています。中央組織が分裂していては対抗するパワーも減じるという声は長らくあって89年、総評と同盟らが大同団結して連合の結成へとこぎ着けました。当時の組合員数は約800万人です。 89年7月の参院選で、連合の前身組織である全日本民間労働組合連合会(旧連合)が母体となった「連合の会」推薦候補が11勝1敗の好成績を上げました。特に自民党の金城湯池であった改選1人区で全勝したのは快挙です。社会党も土井たか子委員長の人気もあって躍進。勢いをつけて年末の連合結成に至ったのです。 一方の自民党は宇野宗佑首相の女性スキャンダルが尾を引いて結党以来初の過半数割れ。ショックは大きく、参議院での単独過半数回復は2016年選挙まで待たなければなりませんでした。
非自民連立政権で社会、民社が与党入りも……
もっとも、結成以後も「旧総評系が社会党」、「旧同盟が民社党」という支援構図はしばらく変化せず組織として政治的に分裂していました。 1993(平成5)年の総選挙で自民党が過半数割れし、細川護煕(日本新党代表)非自民連立政権が誕生しました。社会党と民社党も与党入りして連合の意気が上がったのもつかの間、翌年4月に総辞職。社会党は自民党と組んで6月、村山富市委員長を首班とする連立政権を樹立させました。連合内には宿敵の自民党と組む形に大いなる不満が噴出するも、旧総評系はやむなく支えます。村山首相が96年1月に退陣し、同時期に社会民主党(社民党)へ改称した後は、党を見限る議員や労組も出てきて崩壊過程に移りました。 同年9月、菅直人氏と鳩山由紀夫氏を軸とする新党「民主党」結成の動きが出るや連合は事実上の支持政党と決めて、社民党を「友好関係」へ格下げします。前後して社民党を離れて民主へ加わる議員が続出し、党ナンバー2の幹事長まで去る始末。10月の総選挙で最大の支持母体を失った社民党は15議席へ転落した半面、民主党は52議席と上々のスタートを切ったのです。 この再編劇で話題となったのが「排除の論理」。村山政権与党の社民党と新党さきがけ丸ごとの合流を拒んで、さきがけ創設者の武村正義氏や村山氏ら重鎮の入党を「排除」したのです。入党できた社民党議員も左派的なこれまでの主張を封印し「社民色」を消すようつとめました。 一方で、民社党を含む非自民政権を担った勢力は小沢一郎氏が実質的に旗を振った新進党へと合流するも、96年の総選挙で伸び悩むや内争が勃発して97年末にあえなく解党。旧民社系はいったん新党を作った後に98年4月、民主党へ合流しました(注)。やっと連合が「協力・協調関係」(事実上の支持)としてきた旧社会、民社の双方を抱え込む単一政党が誕生したのです。