「50-50」目前! 大谷翔平選手がドジャースに移籍する際にポルシェ「タイカン ターボS」をアシュリー・ケリー選手にプレゼントした理由は?
東北から世界最高の舞台へ
大谷は岩手県奥州市で育ち、幼いころからプロ野球選手になることを夢見ていた。世界最高の野球選手が米国でプレーする一方、日本は米国に次ぐ世界最高のリーグの本拠地である。 大谷はスポーツ一家の出身だ。母親はバドミントンをしており、父親はセミプロの野球選手で、その情熱を息子に受け継いだ。若き大谷には大きな目標があり、 「夢が原動力でした。他のことはすべて二の次でした」 と彼は説明する。彼は18歳の時にアメリカでプロとしてのキャリアをスタートさせることに興味を持ち、2012年には複数のメジャーリーグ球団が彼との契約を熱望した。しかし、北海道日本ハムファイターズがアメリカではほとんど不可能なことを約束してくれたとき、大谷は考えを変えた。 もし契約すれば、ルーキーに限らず、日本リーグでは前例のない二刀流選手として、彼の潜在能力をフルに発揮させることができる。彼の予想は成功し、後に最優秀選手(MVP)に選ばれ、2016年には北海道日本ハムファイターズで優勝。1962年、2006年に続いてチーム3度目の国内タイトルを獲得した。そして5シーズン後、彼はMLBへの移籍を決断した。
スーパースターへ昇り詰める
23歳になる頃には、大谷は人気選手となり、新しい所属先を選ぶことができた。そこでMLBで二刀流選手としての地位を確立したいと考え、ロサンゼルス・エンゼルスを選んだ。 この新加入選手がチームの他のメンバーとなじむのにそれほど時間はかからなかった。彼らは彼を親しみやすく、謙虚で、ユーモアのある人物と評価した。野球界最大の舞台での彼の新たな冒険は、最初は波乱に富んだものだったが、エンゼルスの信頼は揺るぎなく、異なるゲームに慣れる時間を彼に与えてくれた。 彼は試合ごとに成長し、自分のスキルを発揮し、シーズンの終わりには「新人王」に選ばれた。しかし怪我に見舞われ、2年間戦線離脱を余儀なくされた。懐疑論者からは一発屋と呼ばれたが、彼自身は決して希望を失わなかった。 「日本には懐疑論者がたくさんいました。でも、プレッシャーに対処することを学びました」 と大谷はいう。そして完全回復して試合に復帰すると、彼は本来の実力を発揮することができた。それ以上の怪我をすることなく、大谷は二刀流の選手として名を馳せ、シーズンの終わりには米国でもMVPに選ばれた。彼は満場一致でタイトルを獲得した初の日本人選手となった。 そして2023年に再び満場一致で受賞したとき、彼はリーグ史上初めてタイトルを複数回獲得した選手となった。同年、この絶対的なスーパースターは、野球のプロのためのオリンピックのような大会であるワールドベースボールクラシックで母国を優勝に導いた。決勝では、ディフェンディングチャンピオンの米国と対戦し、最後の球で大谷はエンゼルスのチームメイトで米国のキャプテンであるマイク・トラウト選手を三振に打ち取り、試合を終わらせた。3対2で勝利し、2006年と2009年に続いて3度目の世界選手権のタイトルを獲得した。 「人生で最高の瞬間です」 と大谷は試合後に語った。
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