内職賃金が小作農の経済観念を鍛えた 大大阪もう一つの顔、雑貨工業舞台裏
零細業者や農家が貝ボタン加工に参入
貝ボタンの場合、東南アジア、東アジアから輸入された高瀬貝を加工して貝ボタンにし、主としてヨーロッパに輸出された。1923年の大阪府内の貝ボタン工場116戸のうち全工程を一工場内で行う工場は45工場であったが、20年代末には数工場に激減し、ほとんどの工程が農村部の加工業者によって担われるように変化した。 ここでも製造問屋が内職者を組織する生産組織が優勢になったのである。高瀬貝を繰り抜く作業が重要であったが、こうした作業は大阪市内から中・南河内郡、さらには奈良県磯城郡へと拡大した。 繰生地機の価格は新品で40円(当時の工場労働者の月収程度)、中古で10円程度であったから、零細業者や農家が貝ボタン加工に参入することはそれほど困難ではなかった。河内平野で繰り抜かれた高瀬貝は奈良に運ばれ、そこでさらに小さな貝ボタンが繰り抜かれ、原料の徹底した利用が図られた。
内職賃金比較で鍛えられた小作農の経済観念
明治前期に綿作が衰退してから河内平野の農家は米作、畑作以外にも果樹、園芸を含めてさまざまな商品作物を手掛けたが、その中には輸出雑貨製品の一部の工程を内職として担当するという選択肢も含まれていた。 しかし他の雇用機会と比較して内職工賃が相対的に不利な場合には、内職は急速に衰退した。内職工賃も他の仕事の賃金との比較の中で決まっていたのである。河内平野は戦間期における農民運動の先進地でもあった。 小作争議の展開の背景には、さまざまな商品作物の生産や雑貨製品の内職などを通して鍛えられた経済観念の強い、合理的主体としての農家の行動があった。輸出雑貨工業の展開は、大都市大阪の近郊農村に雇用機会を提供すると同時に農家を経済主体として鍛える役割も果たしたといえよう。 ---------- 沢井実(日本経済史、日本経営史) 1978年国際基督教大学教養学部卒業、1983年東京大学大学院経済学研究科第二種博士課程単位取得退学、1998年大阪大学博士(経済学)取得 東京大学社会科学研究所助手、北星学園大学経済学部専任講師、北星学園大学経済学部助教授、大阪大学経済学部助教授、マールブルグ大学Japan-Zentrum客員教授、EHESS(パリ)客員教授、大阪大学大学院経済学研究科教授、2016年から南山大学経営学部教授 主な著作物:『近代日本の研究開発体制』(2012年、名古屋大学出版会)、『近代大阪の産業発展』(2013年、有斐閣)、『マザーマシンの夢』(2013年、名古屋大学出版会)、Economic Activities Under the Japanese Colonial Empire, 2016, Springer Nature(編著)、『日本の技能形成』(2016年、名古屋大学出版会)、『見えない産業』(2017年、名古屋大学出版会)