性虐待被害の後遺症が悪化した。苦しむ私に届いた『死ねない理由』。経済的に余裕がなければ休むこともできない
父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか? * * * * * * * ◆後遺症の悪化により一変した生活 一昨年のはじめ、性虐待の後遺症が悪化する出来事があった。詳細は割愛するが、その影響により、それまで一度も落としたことのない原稿の締切をはじめて落とした。生活の柱となっていたクライアントから仕事を切られ、私の経済基盤はみるみるうちに崩れ去った。仕事は減り、病院代はかさみ、貯金が底をつくまでに2年もかからなかった。 当時の私は、冷静に考えれば入院が必要な状態にあった。だが、私は入院するどころか新しい案件獲得を求めて必死に動き続けていた。企画書を作り、営業をかけ、書いて読んでを繰り返し、副業先も探した。本当は休みたかった。でも、休むお金がなかった。 独身時代、後遺症によりまともに働くことができなかった時分にも、過酷な貧困に悩まされていた。その頃に比べれば、今はまだマシな状態にある。あの頃のように、公園のトイレで髪を洗うことも、生の雑草を食べることもない。だが、貯金の大半を失い、カードの残債に怯える日々は、私の心を容赦なく削り取っていった。 虐待の後遺症に加え、日々差し迫る貧困への不安。過剰にかかるストレスに耐えかね、私は何度か生きることを放棄した。それらが未遂に終わったのは、パートナーと友人たちの尽力があったからにほかならない。しかし、その際にかかった入院費や治療費は、今でも私の生活を圧迫している。
◆薄れない痛み 実父による性虐待被害から、今年でおよそ25年が過ぎた。時間は少なからず薬になる。私は、その効果を信じたかった。もちろん、多少なりとも時間薬の効き目は感じている。だが、体が記憶したトラウマは恐るべきしつこさで私を蝕み続け、実際には思うほど痛みは薄れず、壊れた箇所はそのままで、夜は怖くて、眠れずに迎える朝は冷淡で、喉元からせり上がる声は私にも周りにも優しくなくて、我慢しきれずこぼれた悲鳴は私とパートナーの日常をいとも容易く破壊する。 両親は今、故郷で穏やかな年金暮らしをしている。日常を壊された側がのたうち回っている裏側で、加害者は通常営業で日々を過ごしている。ある日、唐突に「もう無理だ」と思った。がんばる理由も生きる理由も山ほどあるはずなのに、発作的に「もうがんばれない」と思った。全身に絡みつく希死念慮は思いのほか強く、異変を察して繰り返し連絡をくれた友人たちの電話にさえ出られなかった。 友人たちがパートナーに連絡を取り、パートナーが昼休憩を中抜けして自宅に駆けつけた時、私の手の中には刃が握られていた。抗えない力でそれを奪い取ったパートナーは、私を車に乗せて職場まで連れて行った。 「あと2時間で仕事終わるから、絶対に車から降りないで。ここにいて。約束できる?できないなら、仕事場まで連れて行く」 そう言った彼の目は、ひどく怒っていた。加害者である両親に対して怒っていたのはもちろんのこと、命を投げ出そうとした私に対しても、言葉にしきれない感情があったのだろう。私自身、本当は死にたいわけじゃない。生きてやりたいこと、叶えたい未来がたくさんある。だが、それ以上に生きていることが辛くなる瞬間があって、引いていく波のように容赦ない強さでその衝動に心を持っていかれるのだ。 大切な人たちの存在をはじめとして、本、仕事、夢など、杭となるものは多々あれど、増幅する痛みと憎しみは、時に理性を凌駕する。そのことを、自分でも悲しいと思う。