【ウォール街回想記1】1960年代、日本は新興国だった バーナムの伝説的人物
米国のニューヨーク州マンハッタン南端部に位置する「ウォール街」は、世界の金融センターとしてその名を轟かせています。日本の金融機関が米国に進出しはじめたのは1960年代後半。当時は米国証券会社に日本人が直接雇用される例はたいへん珍しかったそうです。そこで、社会人デビューを果たすことになった日本人証券マンは何を見て、何を経験したのでしょうか?
1969年。当時はウォール街国際化の黎明期に当たります。同年10月、私は米国の証券会社バーナム・アンド・カンパニー(以下バーナム)に入社し(正確には6カ月間のトレーニーとして)右も左も分からずにウォール街に飛び込み、未知の世界での航海が始まりました。 米国の金融信用創造は、実態経済活動の約2倍で成長し続けてきたので、ウォール街は業界として同様の軌跡をたどりました。当時、米国の銀行および証券業界は今日同様に、経済体制の基幹的役割を果たしていましたが、とくに証券会社の規模は現在に比べて、はるかに小さいものでした。そして、多くの営業社員や支店網を抱える、メリルリンチのような、大衆向け証券会社は、殊に荒波にさらされ、統廃合の歴史を繰り返してきました。 日本の4大証券会社(野村、日興、大和、山一)もその頃にニューヨークに支店を開設しています。ウォール街の地元証券会社で当時、日本人社員として働いていたのは知る限り、同僚の大鷹尚正さんだけでした。
1960年代初期、新興国として注目されていた日本
日本は新興国として注目され、1960年代初期ごろ、米国の機関投資家やファンドは日本株投資に注目し始め、開始していました。 ところが、ベトナム戦争が激化するなか、米国の国際収支は悪化し、ケネディ政権時代の1963年に、利子平衡税が施行され、配当に重課税が課せられる運びとなり、米国からの対外証券投資は大きく挫折してしまいました。そうであっても、1960代後半には成長が目覚ましい日本企業に再び注目が集まるようになりました。一つの要因として、1960年代の米国株式市場は空前のブルマーケットとなり、株価は過熱していたのに対し、東京五輪後の日本は証券不況に陥り、株価が明らかに過小評価となっていたことが背景にあります。日本も1964年にOECD加盟国となり、国際社会の仲間入りとして、資本の自由化を促進していた時代です。1970年にソニーはニューヨーク証券取引所に上場を果たし、日本株ブームの象徴となりました。