竹久夢二、16歳の恋人を描いた幻の油彩画がお披露目中
もう1冊、以前、谷崎潤一郎について調べたときに入手していたこの本があった。近藤富枝『文壇資料 本郷菊富士ホテル』(講談社 1974年)。 これによると、本郷菊富士ホテルは谷崎をはじめ、正宗白鳥、直木三十五、宇野千代、尾崎士郎、石川淳、坂口安吾らとも縁のあった宿であった。 この本にはやはり、《アマリリス》に関する記述があった。 夢二と親交のあった(画家の)宇留河泰呂は、随筆『断片歌片』に次のように誌している。 『桃割れか唐人髷、別に誰それ好みというのではない。かわいい娘の顔のそばに、アマリリスがのぞいている。葉っぱや茎の線が鮮やかである。多分二十号位の油絵だった。それに手を入れながら話をした。本郷菊坂で名の通った菊富士ホテルの二階にある一室での、夢二との初対面である。東京生まれの甲州育ち、甲州中学に通っていた中学生の身分だから、今のように手軽に東京と行き来出来るなどの贅沢が許される筈もなく、従ってこの訪問は、私が慶応への入学受験の為に上京した、その序(ついで)のことだったに違いない。 背の低い、色黒の、チャップリン髭に近いのを生やして、紫色の毛糸のシャッポをあみだにかぶった夢二は、笑う時目尻にめだつしわをよせて、そのあたり何ともいえず柔和だった。』 (近藤富枝『文壇資料 本郷菊富士ホテル』講談社 1974年) まさに絵を描いている夢二に会った時のことが書かれている。「アマリリスがのぞいている」というのは思い出して、そう感じたのだろう。「のぞいている」というにはあまりに花が大胆なのだが。「多分二十号位の油絵だった」とあるが、20号といえば、727 × 606(mm)で《アマリリス》は604 × 407(mm)なので、実際より大きい絵だった印象を与えたということだろう。 お葉と夢二が出会ったのが、1919年春か夏、9月にはこの絵を展覧会に出しているので、「それに手を入れながら話をした」というくらいだから、夏の話だと思ったのだが、入学試験が夏にあったとは考えにくいことからすると、展覧会から戻った絵に夢二がさらに手を加えていたということだろうか。ともかく、それからこの絵は、菊富士ホテルの応接間に飾られ、閉館するまでそこにあったが、その後の行方がわからなかった。 ちなみに、丁場の資料によると、逗留者の中には宿賃の払いが悪かった者も多くいたようだが、夢二はそんなことはなく、清算に関しては問題がなかった。なので、宿代の代わりに絵を置いていったということはないようだ。 菊富士ホテルは1944年3月、戦況が悪化する中、食糧統制のため、30年の歴史を閉じ、軍需会社の寮として売却された。翌1945年3月10日の東京大空襲によって、建物は灰燼に帰した。つまり、ホテルは廃業を余儀なくされて、その結果、絵はホテルの旧オーナーが引き上げ、どこかに保管したのだろう。それが幸いして、空襲による焼失を免れ、生き残ったということになる。たとえばそんな数奇な運命をたどるのは絵も人間と同様ということだ。