熾烈な「おじさんパーカー論争」と向き合い、パーカー好きの中年ライターが開いた“悟り”とは
そうして出てきた記事には、以下のようなものがあった。 ・おじさんパーカー騒動は、炎上商法チックではあったが、結果を見てみれば実質知名度を爆上げした妹尾さんのひとり勝ち ・若い世代にアンケートを取ったところ「おじさんパーカー否定論はおかしくない」が半数以上で、「おじさんパーカー」論争は、おじさん差別というよりTPOの問題 ・スタイリストによる「パーカーを格好良く着る方法」 また、中年以上の男性著名人はラジオやSNSなどでよく「おじさんパーカー」について触れ、各々の考えを表明した。その中にはおじさんパーカーが良いかどうかには直接触れず、「双方言葉遣いが過激になってきているので控えるべき」や「こうした議論が起きることが平和で面白い」など、その議論そのものについての言及もあった。 おじさんパーカー否定論が流布して、なんの気なしにパーカーを着ていただけだったおじさんは、急にナイフを向けられた形となった。驚き、心揺さぶられるのが普通の反応であり、そこから心の状態を「憤り」へと変化させていった人は少なくなかった。 なお関連のネット記事や、妹尾さんのSNSには妹尾さんへの反論や怒りの声、悪くすると暴言が多く付き、対する妹尾さんも一歩も引かないので、かなり激しいドンパチとなっていたのであった。 ● 再確認された 「毒をスルーするスキル」の必要性 これらの中で気づいたことの1つ目は、「毒をしっかりスルーするべし」という処世術であった。 おじさんパーカー否定論によってナイフを向けられたところの1人である筆者は、ダイヤモンド・オンラインの一ライターとしてインテリぶりながら知的で冷静な対応を見せたいところもありつつ、実際のところをありのまま正直に書くが、ムカついた。
パーカーを着ているだけでなぜそこまで悪しざまに言われねばならないのか。また、「ムカついたということは少なからずおじさんパーカー論が効いているということであり、こしゃくな言説に自分の自覚していなかった矮小さが言い当てられたのかもしれない」と不安にもなり、そこも怒りにリンクしたのであった。 しかし、現代のこの情報化社会である。おびただしい量の情報が溢れている上に、炎上商法的な発信も散見されるので、毒や悪意のある発信をすべて避けて通るのは不可能である。 毒発信が飛び交う世の中で、極力嫌な気分にならずに過ごすために一個人が可能なことは何か。耳をふさぐのか戦うのか、言った相手をなんとかして愛するのか、いくつかの取りうる選択肢がある。 筆者が自分に一番フィットすると直感した対応法は「スルーする」。すなわち「毒発信を自分の中に『嫌なこと』として落とし込まない」であった。毒発信を真に受けてしまったり、発信者に怒りを感じたりすると心が疲れるので、それらに心を惑わされない境地をぜひ目指したい。しかし現実的にはそこまでの悟りを開くのはまだ難しいので、毒発信を「自分が生きているのとは別の次元で起きている出来事」という脳内フォルダに無理やり押し込んで、気にしないように努めた。要するに逃げとも言えるのだが、心の平穏を保つための積極的な一手である――。 といったことを筆者は、わかっているようで意外とわかっていなかった。もっと正確に言うと、そのノウハウが自分の血肉にできていなかったようなので、おじさんパーカー論争をきっかけに、不意にやってくるネットでの毒をきちんとスルーしていこうと、決意新たになれたのであった。 ● 解釈を広げていけば 全人類がみな友達に 気づきの2つ目は、自分の代わりに戦ってくれる人のありがたさである。筆者自身は戦うとなると灰になるまで戦う気質があるが、そうなるとものすごく疲弊してそれが嫌なので、特にここ数年は戦いの気配がする場所から距離を置くように生活している。しかし理不尽な人が野放しになって活き活きしているのを見るのも嫌で、「誰か代わりに言ってくれないかな」と思わぬこともないではない。