シングルファザー住職が「奥さん最近見ないけど元気?」と聞かれた時に思うこと…旧習にとらわれずあけすけに話す2つの理由
眼の前のことを愚痴るより“向き合う”
私も離婚したことをひた隠しにしておくことが、お寺の旧習の中でとるべき振る舞いだったのかもしれない。そのほうが両親や親戚はホッとしたかもしれない。 しかし、この離婚の件に限らずであるが、私はわりとあけすけに自分の身に起こった悲劇を語るほうが、仏教徒らしい前向きな生き方だと思っている。 理由は2つある。 1つには、仏教的に言えば、後悔するべきは、離婚したということではなくて、離婚に至った原因だと考えるからだ。 仏教の世界の前提には、「自業自得」という因果応報のことわりがある。つまり、善い行いをすれば幸せがもたらされ(「善因楽果(ぜんいんらくか)」)、悪事にふければその罰は我が身にふりかかる(「悪因苦果(あくいんくか)」)。自分の行いの報いは必ず自分が受けなければならない。 もっとも、この自業自得の考え方に納得しない人もあるだろう。 「一生懸命働いてるオレよりロクに働かない社長の御曹司が先に出世するのはなぜだ」 「犯罪に手を染めても警察につかまっていないヤツもいるではないか」 しかし、仏教では幸不幸の結果がもたらされる時期は、今生(こんじょう)だとは言わない。来世かもしれないし、来来世かもしれないが、必ず結果はやってくるという。経典をいくら読んでも、そのタイミングについてはいつも「お釈迦さまのみが知っている」などと説かれ、うやむやにして煙に巻かれてしまう。だから、正直に言えば、私も因果応報を100パーセント信じ切っているわけではない。 ただ、他人のことはともかくとして、我が身を省みるなら、苦しい時はつい自分を正当化しがちだが、よくよく考えると己の非ばかりが思い当たる。離婚にしても、私の努力次第で回避できるタイミングはいくらもあったはずだ。 我が身の至らなさを「悪因」として反省すればこそ、その「悪因」からもたらされた「苦」が二度と起こらないように生き方が変わってくる。「自業自得」の考え方は、よりよく生きるための提案として、百パーセント合理的だと受け止めている。 だから、今目の前にあるシングルファザー生活の大変な部分だけ見て愚痴るよりは、めいっぱい向き合って家族が成長する糧にしようと思った。