「ミシャ式」誕生の功労者 “ドクトル・カズ”がクラブ史上最高のボランチであり続けた理由【コラム】
18歳MF中島洋太朗は森﨑和幸の後継者候補
そして、カズの成長を温かく見守ってきたミハイロ・ペトロヴィッチ元監督は「戦術眼・技術・予測、あらゆるものが素晴らしい。まさにドクトル・カズだ。彼は常に自分ではなくチームのことを第一に考えていたし、だからこそ彼の意見を参考にして、私は当時の広島を作っていった」と言う。 有名な「ミシャ式」は、2008年に森﨑和幸が試合中に発想して戦術をコントロールしたことが発端となった。だが、もしペトロヴィッチ監督がカズを信頼していなかったら、この戦術を採用していなかっただろう。ミシャ式は間違いなく日本サッカー界に大きな影響を及ぼしたが、その誕生に大きく関わったのが森﨑和幸だったのだ。 新潟戦で決定機を作り出した中島洋太朗は、その3日後の川崎フロンターレ戦では45分プレー。不安定だった前半の広島を見事に立て直し、何気ない1本のパスやポジション取りでチームを前に向かせ、攻勢に転じさせた。働きは地味に見えるかもしれないが、間違いなく広島を牽引したのは18歳の若者だった。 彼について「天才」と表現した塩谷司は、「守備のところで、まだまだ学ばないといけないけどね」と課題を指摘。その彼に「髙萩洋次郎と森﨑和幸、2人のいいところをとったイメージがあると思う」と問い掛けると、「たしかに。そういう雰囲気はあるよね」と頷いた。 とんでもない若者が現れた。ただ、本物のゲームメイカーになれるかどうか、そこはまだ分からない。森﨑和幸は、洋太朗の父・中島浩司にこう評された。 「激しさと頭脳と、両方を持っている選手。クレバーを装ったファイターで、タックルなどは本当に深い。シオ(塩谷)もえぐかったけれど、(カズと比べたら)あいつはまだ、優しい。カズは『これができなかったら死んでしまう』くらいの激しさがある。その闘争本能は外国人選手のよう」 中島洋太朗が攻守にわたって森﨑和幸の域に達する時が来た時、彼はきっと、日本代表を牽引する存在になる。 (文中敬称略) [著者プロフィール] 中野和也(なかの・かずや)/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。
中野和也 / Kazuya Nakano