「ミシャ式」誕生の功労者 “ドクトル・カズ”がクラブ史上最高のボランチであり続けた理由【コラム】
森﨑和幸は「分かりやすい武器」を持っていなかった影響で一般的評価は上がらず
1999年11月20日、Jリーグセカンドステージ第13節ガンバ大阪戦。J1残留をほぼ手中にしていたトムソン監督は、森保一の出場停止という機会に乗じて18歳の若者を先発でデビューさせた。ここでカズは後半28分まで出場。「緊張した」という彼の言葉とは裏腹に、攻守にわたって安定したプレーを見せて、アウェーでの勝ち点1に貢献した。 彼の能力が分かりやすい形で見えたのは、その年の天皇杯だった。4回戦のアビスパ福岡戦で藤本主税の決勝点を導き出すアシストを記録すると、次の準々決勝で優勝候補の清水エスパルスを撃破する先制アシスト。準決勝ではヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)を相手に7-2と大勝したが、この試合でも藤本のゴールを演出し、3試合連続アシストで決勝進出に大きく貢献した。 2000年元日に行われた名古屋グランパスとの決勝は、「ピクシー(妖精)」ことドラガン・ストイコビッチの独壇場。1得点1アシストの数字だけでなく、緩急のリズムだけで広島の守備陣を崩しきった伝説のゴールを見せ付け、国立競技場を熱狂させた。 だが、少なくとも前半、ピクシーは沈黙。その原動力はカズの守備だった。抜群のポジション取りで相手のパスコースを寸断し、名古屋のシュートを0本に抑えた。一方、広島は3度の決定的シーンを作り出し、間違いなくペースを握った。 だが後半、彼は腰痛を訴えて交代。守備のバランスを失った広島は次々とカウンターを食らい、ピクシーの伝説の舞いに屈してしまった。 試合後、トムソン監督は「カズの交代が痛かった」と率直に語った。それは高校3年生が、チームの中心となっていたことを証明する出来事でもあった。18歳が中心となってチームをタイトル寸前まで押し上げた例は、少なくとも広島では空前絶後だ。 翌年、彼はルーキーイヤーで24試合3得点をマークして新人王を獲得。2001年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではのちにチェコの英雄となるGKペトル・ツェフから見事なゴールを奪うなど、クオリティーの高さも見せていた。 だが、小野伸二や中村俊輔、小笠原満男のように決定的なスルーパスやフリーキックなどの「分かりやすい武器」を持っていなかったカズの一般的評価は上がらなかった。2003年に発症した慢性疲労症候群という難病との闘いが続き、練習することすらままならない状況も、不当な評価に輪を掛けた。