「子供はまだなの?」はめんどくさいの極み…令和の出産適齢期世代がイラっとする"母親たちの一言"
■「母の望む娘にはなれない」と泣けてくる 私が怒るたびに、母は「あ~ハイハイまた怒らせちゃったわね、すぐ怒るんだからまったく」という調子。あくまで私がすぐキレる面倒な娘で、自分はなんら間違ったことを言っていないと思っている。 そんなに喧嘩するなら帰らなきゃいいだろとも思うが、そう単純に行かないのが家族であり、母と娘だ。こんなに母にキレている私ですら母に会いたいときもあるし、母にいろんなことを話したいし、母にもっと幸せになってほしいと思っているのも事実なのだ。 大事に思っているのにどうして相容れないのだろう……。 私が自分の思うように生きている以上、母の望む娘の姿にはなれないのだ。実家から帰る電車で泣いたこともあった。これを書きながら今も少し泣いている。 母の「当たり前」は結婚して子供を何人か産んで、仕事はそこそこにやるか辞めるかして子育てに専念することだ。それは長らく社会の「当たり前」でもあった。 そんな母が育ててくれたから、学校から帰れば母がいたし、手作りの品数が多いご飯を毎日食べられたし、部活の送迎もいつもしてもらって、それを当たり前のこととして子供時代を過ごした。 ■母にも家・夫・子供から解放されてほしい けれど同時に、それらのタスクをこなすことに疲れ果て、他に逃げられる自分の居場所もなく、いつも擦り切れそうな母を見てつらかったのも私の子供時代だった。 家と夫と子供にすべてを捧げて、この人は本当に幸せなんだろうか? 私たちがいるからこんなに大変なんじゃないか? 私も将来、同じことをやらなきゃいけないのか? どうして女ばっかりこうなるんだろう? 母に育てられた私は、母に育てられた結果として、母とは違う道を歩もうとしている。私の生き方は、母にとっては自分の生き方の否定のように映るのかもしれない。 だけど、私は本当は今でも母に、家や夫や子供から解放されてほしいと思っている。 自分だけ自由になってごめんなさいという罪悪感だってある。それでも、母にとっての「当たり前」を生きるのは、生まれ変わってもたぶん、私には無理なのだ。 幾度も私が子供を産む・産まないの話で喧嘩をして、最近はようやく母も態度が軟化したように見える。内心は今でも「娘に子供を産んでほしい」と思っているだろうけど、形だけでも「あなたが幸せならそれもいいんじゃない」という言葉が出るようになった。 私が母と同じ「当たり前」を歩まなくても、めちゃくちゃ幸せに生きている姿を見せることが、私の母への果たし状であり詫び状なのかもしれない。 ---------- 月岡 ツキ(つきおか・つき) ライター・コラムニスト 1993年生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子供を持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。マイナビウーマンにて「母にならない私たち」を連載。創作大賞2024にてエッセイ入選。 ----------
ライター・コラムニスト 月岡 ツキ