ろうの母親に、授業参観や運動会に来ないで欲しいと言った日
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
──最近、友達来ないね。 母にそう訊かれるたび、言いしれない居心地の悪さを覚えるようになった。 Yくんの一件(※編集部注:前回記事をご参照ください)があってからというもの、ぼくは友人を自宅に招待できなくなってしまった。もしも、また母の喋り方を笑われてしまったらどうしよう。きっとうまくやり過ごすことはできない。 ──うち、ゲーム少ないし、友達んちに遊びに行った方が楽しいから。 ──そう? また連れてくるときは教えてね。 母の問いかけをなんとか誤魔化す。母はぼくがなにを考えているのか気づいていないのだろう。なんだか悪いことをしているような後ろめたさが、胸いっぱいに広がっていく。 同時に、よその母親とぼくの母とを比較するようにもなっていった。 どこの家に遊びに行っても、みんなやさしい笑顔で迎えてくれる。なかにはぼくの名前を覚えてくれて、親しみを込めながら話しかけてくれる母親もいた。 「大ちゃん、いつもうちの子と遊んでくれてありがとうね」 「大ちゃん、せっかくだから夕飯も食べていかない?」 「大ちゃん」「大ちゃん」「大ちゃん」 名前を呼んでもらえるのはうれしい。けれど、そのたびに、母はこんな風にはっきりとぼくの名前を呼ぶことができないのだ、と痛感する。いくら記憶を探ってみても、「大ちゃん」と明瞭な発音で、母から呼ばれたことがない。 「あいちゃん」 母はぼくをこう呼んだ。だいちゃん、とは呼べない。それがずっと“ふつう”だったのに、Yくんに指摘されたことで、ぼくと母の“ふつう”は、もはやふつうではなくなってしまった。 ふつうではないということは、まだ狭い世界で生きる子どもにとって恥ずかしいこととイコールだ。周囲と足並みを揃え、一ミリもはみ出すことなくいたい。悪目立ちしてしまえば、馬鹿にされ、いじめにもつながりかねないことを知っていた。 だから、徐々に母の存在を隠すようになっていった。 クラス替えから数カ月後のことだった。帰りの会で、教師がプリントを配った。 「前からまわしてね~」 前の席の子がまわしてくれたプリントの束から一枚抜き取り、それをまた後ろの席の子にまわす。わら半紙のプリントには手書きの文字で「授業参観のお知らせ」と書いてあった。 新しいクラスになり、一人ひとりがようやく馴な染じんできたタイミングで、家族に授業風景を見学してもらおうという狙いがあるらしい。 途端に教室中が騒がしくなる。 「げ~! 母ちゃん来るの?」 何人かのクラスメイトは嫌がる素振りを見せていたけれど、それが本心ではないことはすぐわかった。頬を緩め、茶化すように騒いでいる。学校に母親が来るということが照れくさい反面、うれしくもあるのだろう。 「はいはい、静かに~! プリント、ちゃんとおうちの人に渡してね」 でも、みんなのようにはしゃぐ気持ちになれなかった。学校に母を呼ぶ。それは恐怖にも近いことだった。