アタマの良い人が実践している、「考える力」を飛躍的に高める「3つの方法」
先行きが見えない「答えのない時代」を生きる私たちにとって、「自分の頭で考える力」は必須です。でも、何をどのように考えれば良いのか、どのように勉強すれば良いのか、具体的な方法がわからない人も多いでしょう。 【写真】アタマの良い人が実践している、「考える力」を飛躍的に高める「3つの方法」 気鋭の哲学者・山野弘樹氏が、自分の頭で考えて学びを深めるための方法=「独学の思考法」をわかりやすく解説します。 ※本記事は山野弘樹『独学の思考法』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
「一問一答式知識観」を修正する
さて、これまでショーペンハウアーの『読書について』を手がかりにしつつ、「読書」とは区別される「思索」の在り様について考えてきました。こうした考え方を踏まえると、先ほど検討した「一問一答式知識観」は次のように修正されることになるでしょう。 ◯知識は改定的な性格を持つ ◯知識は思考を規定する側面がある ◯思索を展開することこそが思考の本質である (1)知識は改定的な性格を持つ 知識は単に累積的な性格を持つわけではありません。知識とはまさにかつての思索の痕跡に他ならないわけですから、別の思索のコースを取るならば、知識の在り様も変更を被らざるを得ません。このことは、学術書や事典の記述も、研究の前進によって絶えず修正されるという事実によって例証されるでしょう。 知識は必ず何らかの観点によって定式化されているものです。観点の無い知識などは存在しません。そして観点とは、「どのような地点から、いかにして走り出すか(考え始めるか)」を決める出発点に他なりません。こうした観点自体が研究の前進によって変化するならば、それに応じて、知識そのものも改定されざるを得ないのです。 したがって、知識を単に蓄えることは人間の思索にとって全く本質的なことではなく、むしろ重要なのは、そこから知識が定式化されるところの観点の妥当性を検討し、自らその観点を選択することなのです。 (2)知識は思考を規定する側面がある 知識は、単に思考に奉仕するだけの都合の良い道具ではありません。むしろ受動的かつ隷属的な思考にとっては、知識こそが主人であると言えます。批判的な視座を失ったとき、人は「ここにこう書いてあるんだから、きっとそうなんだろう」という風に、書籍やネットに書かれている知識と同じような判断を下すようになります。 知識が思考を支配する時代とは、責任をもって何かを吟味し、判断するということを誰も行わなくなる時代です。そのとき、知識に規定されていることに気づかず、あたかも自分の頭で判断しているように錯覚する人々が増えてしまうことは、社会にとって致命的な打撃を与えます。 なぜなら、そうした思考なき思考習慣こそが、デマや陰謀論の出回る温床になるからです。真なる支配は、被支配者に「自分が支配されている」という実感すら抱かせないのです。 (3)思索を展開することこそが思考の本質である (1)および(2)から明らかですが、思索という観点から考えた場合、知識を収集すること自体に意味があるわけではありません。知識とはかつての思索の痕跡であり、その痕跡をいくら集めても、自分自身で思索を展開することにはならないのです。 それゆえ、単に本に書かれている内容をインプットするだけの読書では、ショーペンハウアーの言う通り、自分の頭では何も考えていない状態に留まっていると言わざるを得ないでしょう。 ここで求められているのは、書物から知識を受容するという一方的な読書法ではありません。そうではなく、書物に対して問いを投げかけながら読書をするという双方向的な読書法こそが、思索する精神には求められているのです。 書物に対して問いを投げかけるとは、「別の考え方もあるのではないか?」、「このルートの先に開かれる視座とはどのようなものか?」ということを絶えず吟味しながら、一歩ずつ筆者の思索をたどり直すことです。その思考の流れの妥当性を一つずつ確かめながら読書をすることで、かつての思索の痕跡と並走することができます。この「並走」こそが、読書の営みと思索の営みを一つの軌道上へと結び合わせるのです。 こうした知識観の変容は、私たちの読書法のみならず、知識と思考の関係性自体を根本的に問い直すものになるでしょう。真なる意味で思考習慣を変えるためには、私たちの知の在り方を規定してしまう知識観そのものを修正する必要があるのです。