絵画の音、亀が鳴くような。/執筆:田口かおり
先日、生まれてはじめて、メスの刃が絵具を切り取る音を耳にした。ほとんど幻聴かと思うほどのささやかさだったが、ぴきり、と絵具層が音を立てた。最初に頭をよぎったのは、亀が鳴くような、ということだった。小説や俳句のなかで目にしたことがあるだけの言い回しで、実際には知らない亀の鳴き声。それでも確かに、私はその音を聴いたのだ。 田口かおりさんの1ヶ月限定寄稿コラム『TOWN TALK』を読む。 私は、絵画や立体作品などの保存修復をなりわいとしている。作品の一部が物理的に不安定な状態になっていれば処置をすることもあるが、最近ではむしろその前段階でのこと──つまり、目の前の作品をよく観察して調べ、組成や制作技法、来歴をあきらかにするような仕事が増えている。美術作品を調査する際には、顕微鏡や紫外線、赤外線、エックス線などをつかういわゆる「非破壊」の光学調査が調査手法の主軸になることがほとんどだ。ところが今回だけは、絵画を描くのに用いられた絵具の成分を何としてでも特定しなくてはならないというのっぴきならない事情があって、かなりイレギュラーなことながら、絵具片を採取することになったのだった。 0.2~3mmほどの小片を、絵画表面から削りとる。こう書いてしまえば一行で終わる作業なのだが、緊張のあまり呼吸が乱れてしまって、時間をかけて気持ちを落ち着かせなくてはならなかった。作品の一部を「壊す」ことでしか実施できない調査に良心の呵責がないと言えば嘘になる。できれば行いたくない、行うのならば必要最小限で、と、同業者なら誰もが思うだろう。冷たいメスを握りなおしながら、それでも、と私は記憶をたどる。イタリアの修復工房で仕事をしていた15年前には、これほどまでには緊張しなかったのに。もう少し落ち着いてサンプルを採取できていたのに、と。
あの頃、耳に届くことのなかった音が聴こえるのは、年齢と経験を重ねるなかで、この仕事により怖さを感じるようになったからかもしれない。何かを保存し修復するということは、何かを選ぶことであり、何かを選ぶということは、そこからこぼれ落ちるものや失われるものがあるということでもある。絵画を洗浄すれば埃は拭われ画面に光が戻るかもしれないが、そこに蓄積していた灰色の時間の痕跡はもう戻ってくることはない。もちろん、保存修復や調査のすべては作品をより安全に展示し活用すること、より長い保存を目指して行われるものだ。それでも、自分のひとつひとつの選択が、間違いなく作品を変容させていくこと。何かを壊すことでしか、何かを残すことはできないのかもしれないこと。そのことが、恐い。ただこの怖さは、おそらく私が得たかけがえのない糧なのだろう。保存修復とは、怖いことである。この実感と絵画の鳴き声を心に刻みながら進む牛歩のなかで作品に向き合い、万年は叶わずとも可能なかぎり残す術を探っていくしか、道はないのではないか、と思うことがある。 亀鳴く、は春の季語だ。次の春がめぐってくる前に、私はこの作品がどのような成り立ちのものなのか、使われている絵具を含めて、できるかぎりのことを明らかにしたいと考えている。