将棋会館で生まれたドラマの数々「受け継がれる48年間の重み」~「将棋会館物語」前編
東京・千駄ヶ谷駅前に建築された新しい将棋会館は、とても現代的な建築物で、連日たくさんの将棋ファンが訪れています。その一方で、長らく棋界の出来事を見守ってきた旧将棋会館は、年内の対局をもってその役目を終えます。 1976年の完成以来、旧会館では様々な名勝負が演じられてきました。移転・新築オープンが行われ、新しい歴史が始まりつつある今こそ、振り返るべき物語がそこにはあります。 本稿では、2024年10月3日に発売された、『将棋世界2024年11月号』(発行=日本将棋連盟、販売=マイナビ出版)に掲載された「将棋会館物語」より、その一部を抜粋してお送りします。
(以下抜粋) ■棋士人生を見続けた対局室 2024年は、将棋界にとって歴史に残る年になった。日本将棋連盟が発足100周年を迎えたその年に、東西の両将棋会館の移転、新築オープンが決まったのである。 東京の現将棋会館は1976年に建てられたが、それから既に48年の月日がたつ。多くの将棋関係者にとって、そこに将棋会館があるのは、当たり前のことになっていたが、その陰には先人たちの多大な苦労があった。それについてはいずれ触れたい。 48年と言えば、ちょっとやそっとの年月ではない。中原時代から谷川時代へ、そして羽生時代から現代の藤井時代に時は流れた。その間、この将棋会館で演じられた名勝負や大勝負は数限りない。多くの棋士の人生や運命がここで変わり、そして決まった。 ご存じのように、現将棋会館には「特別対局室」「高雄」「棋峰」「雲鶴」「銀沙」「飛燕」「香雲」「歩月」という8つの対局室がある。それぞれの対局室では、さまざまな勝負が行われ、それぞれの物語やエピソードを生んだ。ここでは『将棋会館物語』として、将棋会館の歴史とともに、それら対局室の足跡を振り返ってみたい。 (中略) ■現将棋会館最初の象徴 現将棋会館で初めて公式戦の対局が行われたのは4月28日。それから間もない5月には新会館の落成を祝う一大イベントして、第35期名人戦第3局がここで行われた。 対局者は、中原誠名人と挑戦者の米長邦雄八段。両者の名人戦は通算で6度行われるが、これが初の名人戦での対決。ちなみに、名人戦が現将棋会館で行われたのは4度しかなく、中原―米長戦はこの1局だけだ。 その名人戦の模様を、当時の紅の観戦記からご紹介しよう。 《若者同士のさわやか名人戦第3局は5月6、7の両日、新築成ったばかりの『将棋会館』で行われた。4月20日の落成パーティーの時に、ある棋士は「これが連盟か!」と叫んだそうである。客用のエレベーターで4階に上がる。いちばん奥の『特別対局室』は18畳で、真ん中に盤が置かれ、報道関係者が十数人待ちうけていた。立会人は升田幸三九段と加藤一二三九段だが、肩書に『特別』とつけなくてはいけない。升田九段が立会人を引き受けたのはこれが初めてである ……美女がふたり茶をささげて入ってきた。地下1階の和風レストラン『歩(あゆみ)』からの出張である。これが連盟かと、私も心の中でつぶやいてみた》 当時、特別対局室の天井にはテレビカメラがあり、盤面が館内十数台のテレビに映し出されていた。2階の道場で、あるいは地下のレストランにいても、名人戦その他の本物の盤面が見られる。そのテレビカメラに映し出される中原名人の白く美しい指は、現将棋会館最初の象徴だった。 (将棋会館物語―特別対局室編―「受け継がれる48年間の重み」/【記】鈴木宏彦)
将棋情報局