朝廷の低評価を「歌」で覆した藤原惟規
5月19日(日)放送の『光る君へ』第20回「望みの先に」では、藤原伊周(ふじわらのこれちか/三浦翔平)と藤原隆家(たかいえ/竜星涼)の起こした不祥事の結末が描かれた。一方、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)は父の昇進に一役買うため、筆をとった。 ■呪詛の疑いをかけられ伊周・隆家が失脚 藤原伊周と藤原隆家が花山法皇(本郷奏多)に行なった所業はまたたく間に宮中に知れ渡った。事の大きさに憤った一条天皇(塩野瑛久)は二人に謹慎を命じ、事態の収束をはかる。 その頃、まひろの家では、父・藤原為時(ためとき/岸谷五朗)が淡路守に任じられたことを祝い、家族一同で喜びを分かち合っていた。しかし、まひろは満足していなかった。宋(中国)の言葉を解する父は、宋の使者が詰めかけている越前こそ、その能力が生かされる場所である、と信じていた。そこでまひろは一計を案じ、密かに申文を書き送る。 するとまもなく、為時は淡路から越前へ国替えとなった。相次ぐ不相応な昇進の裏に藤原道長(みちなが/柄本佑)の存在がある、と察した為時は、まひろに真相を問いただす。まひろは、かつての道長との関係を父に告白した。 一方、体調を崩し寝込んでいた女院・藤原詮子(あきこ/せんし/吉田羊)の容態が回復に向かわないのは、呪詛(じゅそ)によるものと判明する。伊周・隆家兄弟の企みであるとの証言があったことで、兄弟の処遇はもはや謹慎どころではなくなった。 呪詛は身に覚えがないと反論する伊周は、政敵・道長に涙しながら頭を下げた。また、兄弟に連座する形で内裏から退いていた、伊周の妹である中宮・藤原定子(さだこ/ていし/高畑充希)は、一条天皇に兄弟の減刑を懇願する。一条天皇は罪一等を減じ、二人を流罪と決した。 兄弟を捕縛するため検非違使らが伊周、定子、隆家らの住まいとする屋敷を取り囲むと、刑の執行に納得のいかない伊周は逃亡。隆家は出頭した。邸内に乗り込んできた検非違使の前に姿を見せた定子は、突如、自らの髪を切り落としたのだった。 ■官職を辞して父の越後行きに同行 藤原惟規(のぶのり)は、藤原為時と藤原為信(ためのぶ)の娘との間に生まれた。生年は不詳だが、974(天延2)年という説がある。紫式部の弟とされるが、兄との見方もあるようだ。なお、「あねなりし人なくなり」(『紫式部集』)と振り返っていることから、紫式部には姉もいたらしい。 幼少の頃、漢籍を朗読するのに多くの時間を費やすなど苦労していたという。なかなか覚えられず何度も朗読していると、隣で聞いていた紫式部がたやすく暗唱してみせた。娘に比類のない学才があることを知った父の為時は、紫式部の方が息子だったら、と嘆いたとの逸話がある(『紫式部日記』)。 1007(寛弘4)年に六位蔵人に抜擢された。どのような実績があって任命にいたったかはよく分からない。おそらく、同年あるいは前年に姉の紫式部が中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし)に出仕したことが関係しているものと思われる。 漢籍が不得意という一面が、いささか朝廷の仕事にも響いたようで、伝えられる惟規の業績には朝廷での失敗談が多い。 例えば、1008(寛弘5)年7月のこと。中宮・彰子は念願の懐妊を果たし、出産のため土御門邸に退出した。惟規は中宮の出産見舞いの勅使として派遣され、一条天皇の手紙を中宮に届けている。この時に、屋敷で歓待を受けた惟規は、あろうことか酔いつぶれてしまい、立って拝礼すべきところを、座ったまま行なったとの話が伝わっている。 また、同年に中宮御所に盗賊が押し入るという事件があった。紫式部は弟に手柄を立てさせようと惟規を呼び出したが、すでに御所を退出した後だった。紫式部はひどく失望した、と書き残している(『紫式部日記』)。 しきたりを知らず、儀式に混乱を招いた失敗もあったようで、公卿・藤原実資(さねすけ)に「蔵人、故実を失するに似る」(『小右記』)と呆れられている。 1011(寛弘8)年1月、惟規は六位蔵人を辞して、従五位下に叙爵(じょしゃく)された。越後守に任じられた父の為時に同行するためである。 ところが、越後に向かう間に病を患い、到着する頃には危篤状態となった。いよいよとなった時に、為時が筆を与えると、 「都にも わびしき人の あまたあれば なをこのたびは いかむとぞおもふ」 (都に心細く待ってくれている人が大勢いるので、今回の旅は生きて都に帰ろうと思う) との歌を書いたあと、息を引き取った。最後の「ふ」を記す前に亡くなったので、父・為時が書き加えたらしい。 官吏としては大成しなかったが、歌人としては優れた才を発揮しており、勅撰(ちょくせん)和歌集には10首が入集。『藤原惟規集』という歌集も残しており、『今昔物語集』では風流な人物として描かれている。
小野 雅彦