杉咲花×原廣利『朽ちないサクラ』インタビュー 俳優と監督のあるべき姿、今改めて“人を信じること”を考える
杉咲さんの迷いがすごくいいなと思った
──クレジットの最初に名前が出るのが主演であり、最後に名前が出るのが監督です。作品の顔である両者がどういう関係であることが、いいものづくりをする上で大切だと思いますか。 原:やっぱり言い合えるほうがいいですよね。杉咲さんのいいところは、気になったらすぐ聞きに来てくれること。それは監督として、とてもありがたいです。やっぱり監督と俳優は対等であるべき。特に観客に見られるのは主演なので、こうやりたいとか、ここが気になりますということがあれば、言ってもらった方が僕は楽なタイプです。ただ、今回に関しては、杉咲さんが迷っているなと感じる瞬間が結構あって。あえて僕からは何も言わないほうがいいと思った部分もありました。 杉咲:そうだったんですか。 原:というのも、泉は迷ってる子だと思うんです。千佳の無念を晴らしたいという思いはあるんだけど、どこかちょっとふわふわしていて、完全にカチッと固まっていない。杉咲さんも泉も迷いながらやっている。その迷いがつくりものじゃないところが面白いなと思って、だからあんまり細かくは言いませんでした。もしかしたら、杉咲さんはどうして監督は何も言ってこないんだろうと思っていたかもしれないですけど(笑)。 杉咲:いえいえ、そんなことはなかったです。 ──迷われていた場面というのは、たとえばどこのシーンでしょう。 原:葬式のシーンかな。そこで、富樫(安田顕)が泉に対して、ちらっと千佳の話をするんです。それに対して、泉は「え?」と言うべきか言わないべきかということを現場で結構話したんですよね。最終的に「え?」と言うことになったんですけど、そこの「え?」も迷いがちゃんとあって。一言だけなんだけど、あの固まってない感じが泉としてすごくいいなと思いました。 杉咲:各場面でより適したアプローチはどういったものなのかを探っていた感覚でした。 原:そうですね。探っていたって感じかな。 杉咲:成立しないことはないのだけれど、でもより良いものがあるのだとしたら、選択肢として可能性を探りたいなという気持ちで、監督とは結構密にディスカッションを重ねていました。 ──なぜ親友は死んだのか。その真相を知るために泉は立ち上がるわけですが、杉咲さんの演じた泉は親友の死に涙を流すことも激しく取り乱すこともしない。その抑制された表情が印象的でした。 杉咲:涙を流してしまうことで気持ちが浄化されて、区切りがついてしまうような気がして。泉はまだそこに到底達していない。もっと乾いた状態なんじゃないかという話は、監督とも結構しましたよね。 原:千佳の死が急すぎて、気持ちが追いついてないんじゃないかって。本当は悲しみたいんだけど、後悔のほうが強すぎて泉は泣けないんじゃないかと、そういう話はしましたね。 ──今回杉咲さんは現場に台本を持ち込まれなかったと聞いていますが、基本的に普段からいつもそうされてるんですか。 杉咲:そうですね。台本は現場に入る前に読んでいるので、その先は体がどう反応していくかに集中したくて、基本的には持っていきません。それに、現場に行けば誰かが持ってるので(笑)。 原:なるほどね。そういうことか(笑)。 杉咲:実体として目の前に現れたものが真実だと思いたいというか。 ──どの作品を拝見しても、瑞々しい表現をなさる印象があって。いつもカメラの前で、何を考えてらっしゃるんだろうということが気になります。 杉咲:すごく緊張して、心臓がドキドキしてます(笑)。 原:それは緊張するよね。 杉咲:やっぱりお芝居をするという行為自体が不思議というか、変だなぁという感覚が常にあるんです。たとえば人が泣いてしまうとき、それは涙を流したいからではなくて、泣きたくないのにこぼれてきてしまうことのほうが多い気がするんです。だけどそういうシーンを撮影するとき、作劇上では涙を流すほど悲しい気持ちになることが想定されている。そこにはやぱり矛盾があって。演じ手として当事者になろうとする自分と、つくり手としていいシーンにしたいという気持ちを持つ自分。その両方の感覚を持ち合わせつつ、たくさんの人に見つめられながらお芝居をするって、やっぱり不思議な行為だなぁって。まず平常心ではいられないですよね。そこに向かっていく時間はすごく怖いし、プレッシャーがあります。