だから死の2日前まで新聞連載を書き続けられた…「平気で生きる」悟りをつかんだ正岡子規の切実な美文レター
闘病しながらも自分らしく生き切るにはどうすればいいか。『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)を上梓した文芸評論家の富岡幸一郎さんは「明治の俳人・正岡子規は、病気と自らの志を一体化させた。それによって得られた独自の悟りがある」という――。 【画像】2人の明治期の文豪がルームシェアした住まい ■自らの結核を出発点とした明治の俳人 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 正岡子規といえば、この俳句が有名ですね。現代風にいえば、「柿を食べていたら、法隆寺(奈良・聖徳宗総本山の寺院)の鐘が鳴った。ああ、秋を感じるなあ」という句です。 当たり前のことを言っているだけのように思えるかもしれません。しかし、これがまさに子規が編み出した「写生」という句作のスタイルなのです。 絵画にたとえるとわかりやすいのですが、水墨画のように墨でふわふわと描く絵画もあれば、目の前にあるものをリアルにデッサンする写実的な絵画もあります。 リンゴならリンゴの形をシャッと描く写実主義を自らの俳句の世界で実践したのが、子規なのです。風景を観察し、言葉にする写生句を重視しました。 そんな子規ですが、「正岡子規」というのは雅号(ペンネーム)で、本名は「正岡常規」といいます。 21歳のときに結核を患い、せきとともに血を喀出(喀血)したのですが、「子規」というのはホトトギスの別名。「鳴いて血を吐くホトトギス」という言葉から、喀血に苦しんだ自分自身になぞらえたペンネームにしたのです。 子規の俳句の出発点には病気、特に結核による喀血が深く関わっており、これこそが子規の俳句の原点となっています。まさに文学と病気が一体となったような俳人・歌人なのです。 ■喀血を機に学業よりも「書くこと」を選択 病に冒されたというとインドア系の印象がつきまといますが、もともと子規はスポーツ好きの活発な青年でした。 明治5(1872)年、第一大学区第一番中学(そののち開成学校、現・東京大学)のアメリカ人教師、ホーレス・ウィルソン(2003年野球殿堂入り)が、日本に初めてベースボールを紹介し、生徒たちに教えたといわれます。 子規は明治17(1884)年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、試合にも積極的に参加していました。 明治22(1889)年には、郷里の愛媛・松山にバットとボールを持っていき、松山中学の生徒たちにベースボールを教えたりもしました。 また、子規といえば、夏目漱石との関係も外せません。帝大の同窓生であり、ともに病気に悩まされた仲でもありますが、同じ慶応3(1867)年生まれの漱石とは、親友同士だったのです。 第一高等学校(現・東京大学教養学部)時代に漱石と苦楽をともにして、帝国大学にも進みますが、前述のとおり、21歳での喀血をきっかけに学校をやめようか考えるようになります。親友の漱石は考え直すように子規を説得しましたが、学業よりものを書くこと、俳句をつくることに心が向いたことや、病気で死ぬかもしれないという懸念から、最終的には退学を決意しました。 その後、子規は、叔父の友人であった陸羯南(くがかつなん)のもとを訪れます。新聞『日本』の創始者の陸に「新聞記者として働かせてほしい」と直談判したのです。 こうして子規は、大正3(1914)年まで発刊されていた『日本』の新聞記者として働きました。結局、陸は仕事を任せただけではなく、子規が亡くなるまで生活の面倒も見るなど、全面的にサポートしたのです。