だから死の2日前まで新聞連載を書き続けられた…「平気で生きる」悟りをつかんだ正岡子規の切実な美文レター
■療養をかねて漱石と52日間のルームシェア 新聞記者としての仕事や句作を続けていた子規の転機は、明治27(1894)年の日清戦争でした。子規は従軍記者として戦場である中国東北部・遼東(りょうとう)半島へと赴き、戦地の様子を報道しましたが、中国から帰国する途中、船上で大量に喀血をして、歩くこともままならない重体となってしまいます。 28歳のときでしたが、それ以上仕事を続けられなくなった子規は、療養生活をするため地元・松山に移ります。そこで子規が頼ったのが、親友の漱石でした。 一時期、松山で中学教員をしていた漱石は、子規といまでいうところのルームシェアをしていたのです。 2人は52日間、同じ家を借りて暮らしましたが、子規は療養に努め、漱石は2階を居間として使用していました。もともと漱石が住んでいた家に、日清戦争の従軍記者として中国から瀕死の状態で帰国した子規が転がり込んできたという感じです。 その間、漱石のつくった俳句を、子規が添削することもありました。 漱石はロンドン留学へと発ちますが、ロンドンから子規に宛てて手紙を書いたりもしています。 ■「死ぬまで書かせてくれ」と100回の連載を完遂 明治の言論界を代表する新聞『日本』に、子規は随筆『病牀六尺』を連載し、34年と11カ月の人生を終える死の2日前まで執筆を続けました。 最期の年となる明治35(1902)年、当時は死に至る感染症だった結核菌が脊椎(せきつい)に感染したことによる「脊椎カリエス」に襲われ、背骨が痛み、寝たきりになったことから、連載が一時中断されることがありました。 しかし、そんな困難な状況にあっても、子規は「自分は書きたいんだ」と強く訴え、こんなことを手紙に綴っています。 ---------- 「拝啓 僕の今日の命は『病牀六尺』にあるのです。毎朝寝起きには死ぬほど苦しいのです。その中で新聞を開けて『病牀六尺』を見るとわずかに蘇るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ、病牀六尺がないので泣き出しました。どーもたまりません。もしできるなら少しでも(半分でも)載せていただいたら命が助かります。僕はこんな我儘を言わねばならぬほど、弱っているのです」 (明治35年5月20日ごろ 古島一念宛書簡) ----------