風間杜夫「引っ込み思案を直すため児童劇団へ。米倉斉加年さんの〈将来役者になるつもりなら、劇団はやめて学校で勉強しなさい〉の言葉に、中学で退団し」
中学は、受験勉強をして玉川学園中等部に進学。入ってみると、みんなと勉強するのがこんなに楽しいものなのか、と思ったとか。 ――そうなんです。僕は東映の教育映画によく出てたんですけど、その頃まだ劇団民藝の研究生だった米倉斉加年さんが大学生の役で出てて、「君は将来役者になるつもりなら、児童劇団はすぐやめて学校で勉強しなさい。大人になってから改めて演技の勉強をし直さなきゃダメだ」って言われたのがずっと頭にあったんです。 それで中学に入ると、勉強って面白いなぁと思って、子役で学校休むのがもう嫌になっちゃった。 1年生の夏休み前に劇団やめると言ったら、劇団関係者からは「君惜しいよ、せっかく顔を覚えられたんだから、このまま行けば役者の道に進めるのに」と説得されました。でも、やめます、って言って。 自分を振り返ってみると、あそこで一度区切りをつけたのがよかったな、と思う。 だからちょっと早めだけど、第2の転機は児童劇団をやめたことですね。米倉さんが亡くなられる少し前にテレビで共演した時に、僕がその話をして感謝したんですけど、やっぱり覚えてなかったな。(笑)
◆早稲田で「自由舞台」に入ったものの 中学から高校へ進んでも、演劇への情熱は決して衰えなかったという風間少年。 ――高校時代はよく早稲田大学の大隈講堂に「自由舞台」の芝居を観に行ってましたからね。早稲田にはあと「木霊」と「劇研」という演劇サークルがありましたけど、僕は一浪して早稲田に受かると、すぐに自由舞台に入りました。 でも入った翌年が70年安保闘争の年で、授業なんかないんですよ。自由舞台の先輩たちは日本社会主義青年同盟解放派――通称青解のバリバリの活動家が多くて、駆り出されてデモばっかり行ってましたね。 一度機動隊に捕まって、向島警察に2泊3日の体験をしました。4人部屋に入れられたんですが、そこに牢名主じゃないけど山茶花究(さざんかきゅう)みたいな強面のおじさんがいて。 ものすごく親切にしてもらったんで、釈放されたら絶対この人に差し入れしようと思ってたのに、出たらその喜びですっかり忘れちゃった。 思えば「忘れられたり忘れたり」の青春でしたね。(笑) (撮影=岡本隆史)
風間杜夫,関容子
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