「配偶者」というだけでは、「腎移植のドナー」になれない…多くの人が知らない、ドナーになるための「厳しい条件」
家族の選択
このころ、私たちには月に一度の決まりごとがあった。近所の寿司屋で、林の両親と4人で食事をともにすることだ。 義父は政府系金融機関の元銀行マン。高度経済成長期の真っただ中をガムシャラに駆け抜けた世代で、成功体験の塊。義母はいつも夫のそばに静かに寄り添っていて、夫唱婦随を絵に描いたような夫婦だった。 その日の夜、両親にことの顚末を説明した。移植手術が取りやめになったこと、近いうちに入籍すること、そして3年待って夫婦間で腎移植をするつもりだと伝えた。せっかくの食事の場なので、林がすぐ話題を変えようとすると、義母が「ちょっと待った」と言わんばかりに予想もつかぬことを言い出した。 「新、私の腎臓を使ってちょうだい」 カウンターの中の料理人がギクッとしたように、まな板から視線を上げたのが視界に入った。義母はとても小柄な人で、79歳。 「惠子さんの腎臓をもらう話には、私は、本当は最初から反対だったの。死ぬ前に、私も新の役に立ちたい。もう何も思い残すことはないから」 義母の決意は固かった。義母が林のことをとても大切に思っていることは平素から十分に感じていたが、息子の遺伝性難病は自分の血脈が原因ではないかと疑っていたことも、決断の背景にあったのではないかと思う。 すると義父が会話に割って入った。それまで「遺伝性難病などと言われても、わが家にそんな病人はいないぞ!」と不機嫌そうに声を荒げてきたというのに、 「同じ老人なら、男の腎臓のほうが大きくていいだろう。私のを使いなさい」 そう言い切って、中トロを飲むように口に放り込んで日本酒をあおった。 これには義母もびっくりした風に夫を見つめている。意外な展開に、私も林も、寿司のネタを味わうような余裕は吹っ飛んでしまった。 義父は、義母より少し年下の77歳。定年後も毎週のようにゴルフに通い、散歩も欠かさず、歳の割には姿勢も体格もいい。よく食べ、よく眠り、エネルギーに満ちている。信じがたいほどの亭主関白で妻に厳しく当たることがあり、母親をかばおうとする林ともよく小競り合いをした。それでも、義父の息子を思う気持ちに偽りはなかった。 臓器提供をめぐる話し合いは、ときに家族の関係性を冷酷なまでに浮き彫りにする。命の重み、覚悟、献身、犠牲、勇気、人生の優先順位が、残酷なかたちで試される。家族内でのドナーの選定をめぐって話がこじれ、移植手術ができぬうちに患者が亡くなり、そのまま家族の縁が切れたという話も珍しくない。安易に口にはできぬ、繊細な問題だ。 両親の行動は早かった。慶應病院でドナー検査の手続きをすると言っていたが、翌週にはもうそれを終えていた。 二人の気持ちはうれしかった。でも、私は正直なところ実現性はないと考えていた。病院の腎移植パンフレットには、ドナー年齢の上限について「通常は70歳以下とされています。十分健康で、手術や術後の生活に耐えられると判断されれば、75歳くらいまでは提供が可能です」とある。両親ともに75歳を超えている、倫理委員会は通らないだろう、あと3年待てば私の腎臓を使える、あの日の夜の会話で、林は両親との絆を確認しあえた、それだけで十分だと思った。 実際、強健に思えた義父の腎臓は、左右ともに動脈硬化が進んでいて不合格となった。義母のほうに大きな問題は見つからなかった。さらに進んで「クロスマッチ」と呼ばれる、移植の予行演習のような検査、具体的にはドナーとレシピエントの血液を同日に採取して混ぜ、反応を見る検査でも、問題となる兆候は出なかった。 間もなく、慶應病院の倫理委員会は、移植手術にゴーサインを出した。80歳になろうとする母親から50歳の息子への腎臓提供を認めたのである。 * さらに【つづき】〈体中に激痛、麻酔も効かず眠れない「生き地獄」…「腎臓移植手術」を受けた患者の「緊迫した日々」〉では、林氏が手術を受ける様子を見ていく。
堀川 惠子(ノンフィクション作家)