デジタル最新機種に受け継がれる「初代ライカの価値観」を歴史から紐解く
ドイツの名門カメラブランド「ライカ」から新製品ライカCLがリリースされた。日本では12月に発売予定で、先日、国内発表会も行われ好反響を呼んでいる。 ライカは日本では芸能界でも福山雅治が愛用者として知られ、アニメ「ちびまる子ちゃん」では穂波真太郎(たまちゃんの父)が使用。さらにドラマ「Dr.コトー診療所」では診療所の事務長、和田が使うなど、さまざまな作品中にも登場する有名ブランドだ。そのライカが今回、どんなカメラを出してきたのか。ブランドの歴史から紐解いていきたい。
35ミリ・スチルカメラの祖が世界を席巻 一眼レフ登場で低迷もデジタル時代に独自のステータス築く
フィルムカメラの時代、それも日本製の一眼レフが登場するはるか以前に35ミリ判フィルムを使うスチルカメラの祖として1920年代から世界を席巻、ステータスを確立したライカ。 ところが70年代以降は日本製カメラの隆盛に押され業績が低迷、日本のミノルタと業務提携を結び、メインの生産工場をドイツ国外に移すなど紆余曲折を経た。創業家であるエルンスト・ライツ一族は株式を売却し代表権を失い、経営も二転三転(一時はエルメスの資本が入ったことも)。製品の品質が下がったと言われた苦しい時期もあった。そのように時代に翻弄されてきたライカだが、デジタルカメラの時代になって独自のステータスを築きつつある。
1930年代~1940年代ごろは「ライカ1台で家が建つ」と言われたほど、高嶺の花だったという。いささかおおげさな表現にも感じられるが、東京でも場所によっては1000円で一軒家が購入できたといわれる時代、ライカはレンズ付きで1000円前後という価格だった。第2次世界大戦突入でドイツからの輸入が困難となり価格が高騰、さらに東京の土地が安かったという要素もあり、一時そのような状況が生まれたのは事実のようだ。
その後もライカは小型な高級カメラの代名詞であり続けた。アンリ・カルティエ・ブレッソンなど著名な写真家や、グラフジャーナリズムで活躍するカメラマンたちに愛用され、伝説的な存在になっていったのだ。テレビ報道が幅を利かせるようになる前、とくにベトナム戦争以前は、現地にカメラマンが入って撮影した写真が『LIFE』などの雑誌に掲載されることで世界に戦場の真実が伝えられた。小型で高性能なライカは、そうした用途にうってつけのカメラだった。そんなグラフジャーナリズム全盛の時代が、ライカというブランドを伝説にまで押し上げたのだ。 しかし皮肉なことにそんな伝説が、ライカを苦境へ追いやった。35ミリ判カメラの主流だった距離計連動式カメラでは圧倒的な高性能を誇るライカに勝てなかった日本メーカーは、1950年代から続々と一眼レフカメラの開発を始めており、60年代に入って東京オリンピックという晴れ舞台で一眼レフの時代到来を決定づけた。プリズムや鏡を組み合わせることでレンズを通した画像をファインダーで確認できる一眼レフは、レンズとは別にファインダーのついた距離計連動式カメラよりもとくに望遠レンズでの撮影などで有利な面が多く、その威力を発揮するのにオリンピックはかっこうの舞台となった。ニコンやキヤノンなどの日本製一眼レフが世界市場を席巻するようになって、ライカも一眼レフ市場に乗り出しはしたものの、次第に時代の流れに取り残されてしまう。それが、前述の”紆余曲折”につながったわけだ。