映画『違国日記』、新垣結衣が演じる小説家の自然体が心地よい!──6月7日劇場公開
映画『違国日記』が6月7日に全国公開される。俳優の新垣結衣が演じる、極度に人見知りで不器用な小説家と、実姉の遺児との同居譚について、ライターのSYOがレビューする。 【写真を見る】新垣結衣が演じる槙生のまなざしや佇まい、細やかな表情に注目!(全17枚)
新垣結衣の突き放すような言葉に潜む優しさ
TVアニメ化も発表されたヤマシタトモコの人気漫画『違国日記』が、『PARKS パークス』『ジオラマボーイ・パノラマガール』を手掛けた瀬田なつきの監督・脚本で映画化された。『正欲』の名演が記憶に新しい新垣結衣と、オーディションで選ばれた新星・早瀬憩がダブル主演を務め、小説家と姪の共同生活を丹念に描いていく。 確執から疎遠になっていた姉が交通事故で亡くなった小説家・槙生(新垣結衣)は、葬儀で姪の朝(早瀬憩)と出合う。人と接することが不得手な槙生だったが、両親を亡くし行き場を失った朝を不憫に思い、その場の勢いで引き取ると宣言する。かくしてふたりの新生活がスタート。お互いの人間性を大切にしながらも、各々の心持に変化が生まれ始める。 乱暴な言い方をすれば、突然の共同生活という設定自体に目新しさがあるわけではない。「うさぎドロップ」や『カモン カモン』『アマンダと僕』ほか、親戚と暮らす物語は漫画・映画・小説は、様々なメディアで描かれてきている。 ではその中で『違国日記』は何が違うのか、オリジナリティとは何だろうか? これは多分に私見も含むが、「言葉」、そこと連動する「時間」にあると考える。
本作は、「あなたとは分かり合えない」と槙生が朝に告げるところから両者の関係が始まる。しかしそれはウマやソリが合わないといったものではない。「あなたの心/気持ち/痛みはあなた自身のもの」という他者への尊重に根差していることがわかる。自分と他者は別個人であり、根本的にすべてが合致することはないという前提に立ったうえで、互いをどう慈しむかという点で言葉選びを行い、“他者”と生活を行っていく。 予告編でピックアップされているセリフを拾ってみても、「あなたの感情も私の感情も自分だけのものだから、分かち合うことはできない。あなたと私は別の人間だから」「あなたの好きにしたらいい。自分の人生なんだから」といったように、槙生の物言いは一見突き放すようだ。ただその奥には、毒にも薬にもなる「言葉」への危惧がある。 朝を慮り、「やわらかな年ごろ。きっと私のうかつな一言で人生が変わってしまう」と慎重になる槙生の姿が象徴的だが、本作は“言葉が他者に与える影響”に丁寧に向き合う姿勢が特に印象的だ。 これらは原作の名シーンから引っ張ってきたものだが、漫画「違国日記」を「救われた」と評するファンは多い。実社会で生きていくうえで、他者にかけられたかった言葉やまなざし/接してほしかった態度が確かにそこに存在するからであろう。 ただ、映画においては漫画の言葉をそのまま生身の肉体が発すると、当然ながらズレが生じるケースが少なくない。そのため役者は漫画と実写の「ハブ」としての役割を求められるわけだが、劇中で新垣が見せる均し=違和感のなさは見事だ。セリフの言い回しだけでなく、まなざしや佇まい、細やかな表情でも、言葉以上に「実写の槙生像」を表現している。 対する直情的な(それでいて自分の心をまだ言語化する術を持たない)朝とのコントラストも美しい。考えるがゆえに言いよどむ槙生と、無邪気に踏み込む朝がお互いを知り、ふたりだけの空気感を纏っていくさまが心地よい。 言葉を尽くすことは、その分丁寧に時間をかけて相手に接することでもあろう。本作は139分という少々長めにも思える時間をたっぷりと使って、槙生と朝の変化を端折ることなく、(原作とは異なる道筋で)映し出すことに成功している。 槙生が紡ぐ言葉と、そこに流れる時間は、喪失に対する処方箋としても豊かな視座をもたらす。ある日突然両親を亡くした朝は、喪失はあるものの実感をなかなか持てない。両親がいない自宅に間違えて帰ってしまったり、友人といても得体のしれないさみしさに襲われて戸惑ってしまったり──もう覆らない現実を受け止めるのにはやはり時間が必要だ。そして、いくら時間を重ねようとも壊れた心が完全に修復されることはなく、傷はなくならない。その渦中にいる朝に対し、その場しのぎの気休め的な言葉を使わない槙生のスタンスは「いくらでも悩めばいい」と安心感をもたらしていく。