2回も暴力事件を起こした「三条天皇の子」に道長が取った策。外孫を皇太子にしたい道長はどう対応?
だが、少なくとも三条天皇の第1皇子・敦明親王については、かなり素行が悪く、道長の「その器ではない」という言い分ももっともだった。 ■暴力事件をたびたび起こした敦明親王 長和3(1014)年、道長が三条天皇に譲位を迫った年に、敦明親王はとんでもない事件を起こしている。6月に従者に命じて、加賀守・源政職を拉致。舎屋に監禁して暴行を加えたというから、穏やかではない。 また12月1日には、藤原公任の嫡男・定頼の従者と、敦明親王の雑人との間で乱闘騒ぎが起きた。敦明親王の雑人が死去してしまうと、敦明親王は定頼を殴ろうとしたという。このケンカについては、定頼に非があったとされているだけに、自分の雑人が殺されたとなれば、敦明親王も頭に血が上っても無理はない。
だが、皇太子にふさわしい人物かといえば、確かに道長が言うように「その器ではない」という気がしてしまう。眼病を患う身で道長と対峙しながら、息子の不祥事にも頭を悩まされた三条天皇が気の毒というほかない。 しかも、敦明親王は2度の暴行騒ぎの間である10月に第1皇子・敦貞が生まれて、父になっていた。もう少し自覚があってもよさそうなものだ。 敦明親王の第1皇子・敦貞を産んだのは、左大臣・藤原顕光の娘・藤原延子だった。
道長からすれば、さぞ脅威だったに違いない。もし、三条天皇が退位すれば、自身の孫の敦成親王が天皇に即位するところまではよいとしても、皇太子に敦明親王が立てられたとすると、展開が変わってくる。 敦成親王に何かあれば、敦明親王が即位し、皇太子に第1皇子の敦貞を据える可能性が出てくるからだ。そうなれば、自分の一族は、どんどん皇統から離れていくことになる。 自身の娘・妍子が三条天皇との間にもうけた子が、皇子ではなく娘だと知ると、道長はあからさまに落胆したというが、まさに道長にとって恐れていた事態が起きたといってよい。