宇崎竜童、ロックンロールへの夢から開けた50年の変遷 山口百恵とのエピソードや“生死を分けた出来事”も
宇崎竜童がデビュー50周年を記念したメモリアルコンサートを開催している。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでお茶の間にロックを持ち込み、山口百恵への楽曲提供で作曲家としての評価を高めた宇崎。さらに竜童組ではいち早くミクスチャーロックのスタイルを体現し、宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之では凄腕のミュージシャンたちとスーパーバンドとしての存在感を発揮するなど、常に変化と進化を繰り返しながら自らの音楽を前進させてきた。そんな宇崎に、50年のキャリアを振り返りながら、音楽的な変遷について語ってもらった。(森朋之) 【写真多数】活動50周年の宇崎竜童、撮り下ろしショット 「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のヒットで“ロックバンドを広めた存在”に ――宇崎竜童さんは1973年にダウン・タウン・ブギウギ・バンドでメジャーデビュー。「スモーキン’ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がヒットし、『第26回NHK紅白歌合戦』に出演するなど、ロックをお茶の間に持ち込んだバンドとして知られています。 宇崎竜童(以下、宇崎):確かに当時は、テレビがお茶の間にあった時代ですからね。ロックバンドがテレビに出るのもわりと珍しかったし、向こうも僕らの扱いに困ってたみたいで。アイドルやタレントの皆さんと同じように扱われて、僕らが「そんなことやらねえよ」と反発することもよくありました。例えば当時の歌番組は、オープニングでみんなで合唱しながら踊ったりしてたわけですよ。僕はマネージャー業をやっていたことがあったので、テレビ業界のことは知ってたけど、まさか自分たちがやらされるとは思ってなくて(笑)。リハーサルでは一応やるんだけど、本番ではポケットに手を突っ込んで立ってたりね。生放送だから、ディレクターも何も言えないでしょ。 ――スリリングな生放送ですね(笑)。 宇崎:ほら、忌野清志郎なんて生放送でとんでもないことしてたでしょう? あそこまではいかないけど、「なんでディレクターの言うことを聞かなくちゃいけないの?」「あなたたちにバックアップされて、ここに出てきたわけじゃない」という気持ちはありましたね。そういう態度をテレビで観た暴走族が、僕らのことを仲間だと思っちゃって(笑)。地方に行くとバイクの子たちが出てきて、僕らのバスと一緒に走ったりするんですよ。あれは嫌だったねえ(笑)。 ――(笑)。バンドを結成したときから、テレビに出て、多くの人に存在を知らしめようと思っていたんですか? 宇崎:メジャーのレコード会社に所属してましたからね。有名になっていく過程もなんとなくわかっていたんだけど、「自分たちのポリシーを押し通したまま、それができるのか?」というトライでもあったと思います。ただ、最初から売れたわけではないんです。シングルの1~2枚目は全然ダメだったし、1stアルバム(『脱・どん底』/1974年)はテスト盤が出来た段階で発売禁止になって。 ――収録曲の「網走番外地」「ちゅうちゅうタコかいな」が当時の倫理規定に抵触したそうですね。 宇崎:なので僕はまったくの無名アーティストだったんです。やることがないからレコード会社のディレクターのデスクに座って、電話取ってたんですよ(笑)。部長なんて、僕のことをアルバイトの学生だと思ってるわけ。だけど「スモーキン’ブギ」がちょっと売れてテレビに出るようになって、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」がヒットしたら、その部長の態度がコロッと変わって、「宇崎くん、すごいじゃないか!」って(笑)。売れたら売れたで、いろんなことがありましたけどね。例えば週刊誌のインタビューで、最初はまともな質問をしていた記者が「こいつらは喋るぞ」と思うと、とんでもないことを聞いてくるんですよ。「セックスは週に何回ですか?」とか。こっちも若いから、胸倉を掴んで「何聞いてんだよ、この野郎」なんて言ったりね。そういうことが頻繁にありました。テレビの人たちもそうだけど、「ロックバンドなんて」という差別みたいなものがあったんでしょうね。 ――ダウン・タウン・ブギウギ・バンドをテレビで知って、ロックンロールに興味を持ったり、バンドを組んだ人たちも多かったと思います。 宇崎:子供がほうきをギターの代わりにして遊んでたみたいですからね。売れるってそういうことかなと思うし、バンドを作った学生さんもいたかもしれないですね。 ――宇崎さんはMCを務めていた音楽番組『ファイティング80’s』(テレビ神奈川)では、RCサクセション、佐野元春、アナーキー、サザンオールスターズ、THE MODS、プラスチックスなど気鋭のアーティストが出演。これも「ロックを伝えたい」という思いだったのでは? 宇崎:そういう番組がなかったですからね。僕らがエピックレコードジャパンに移籍したタイミングだったんですけど、「全国区の地上波ではないし、活きのいいバンドをどんどん紹介しようよ」ということになって。基本的には神奈川でしか観られなかったんだけど、東京や千葉でもアンテナを立てて、何とか観ようとしていた人も多かったみたいですね。 山口百恵への提供秘話 「横須賀ストーリー」は“あのメロディしか出てこない” ――そして1976年からは山口百恵さんへの楽曲提供が始まります。「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」のソングライティングチームが生まれたわけですが、最初はプロデュ―サーの酒井政利さんからの依頼だったんですよね? 宇崎:はい。『17才のテーマ』(1976年)というアルバムを作るんだけど、4曲書いてみないか? という話をいただいて。ヒットする曲が書けそうか、様子見したんじゃないですかね。その4曲の中に「横須賀ストーリー」もあったんですけど、アルバムからは外されていたんですよ。百恵さんは横須賀育ちだから、ルポルタージュというか、現実と重なり合うような曲を作ってみたんだけど、「アイドルには不適切だと判断されたのかな」と思ってたら、その後「シングル盤として切ります」と言われて。随分後になって、百恵さんのチーフマネージャーだった方から「百恵本人が、阿木さんと宇崎さんに曲を書いてほしいと言ったんです」と教えてもらってね。そのマネージャーの方もすごいですよね。17才のアイドルが「あの人たちに曲を書いてほしい」と言って、「OKわかった」と承諾するなんて、当時ではあり得ないですから。 ――百恵さん自身の意思があったのはもちろん、彼女の意向を尊重する空気があったのかもしれないですね。阿木さん、宇崎さんはその後も「夢先案内人」「イミテイション・ゴールド」「プレイバック Part 2」など、数々のヒット曲を生み出しました。 宇崎:酒井さんをはじめ、みんなで話し合いながら作っていたんです。週1くらいのペースでメシを食いながら「次の曲、どうする?」みたいな話をして。そこでポンと出てきた言葉が瓢箪から駒が出るようなタイトルになったり、面白かったですね。酒井さんは本当にすごい人で。その場で「締め切りは1カ月後」と決めたのに、次の日に「どうでしょうか?」ってもう電話がかかってくるんですよ(笑)。「出来てるわけないじゃないですか」って言うんだけど、また3~4日経つと連絡が来て。なので1年中、百恵さんの曲のことが頭の中で回転してましたね。こっちは自分のレコーディングもあるし、ツアーも回ってるのに。 ――売れっ子作曲家の苦しさですね。 宇崎:ただ、僕は楽しかったんですよ。当時は歌詞が先だったので、阿木は本当に大変だったと思います。詞が上がってくるのが締め切りの前々日ということもありましたし……でもね、阿木の詞は、見てると譜面が浮き出してくるんです。こう言うとオカルトみたいですけど(笑)。例えば〈これっきり これっきり〉(「横須賀ストーリー」)と書いてあったら、あのメロディしか出てこないわけです。歌詞を見て、ギターを持って「マイナーでいく? メジャーでいく?」という話をして。ほとんどスリーコードに近い形で作っていたと思いますね。 ――基調はロックンロールだったと。いわゆる職業作家が作る歌謡曲とは違うテイストですよね。 宇崎:「それまでの歌謡曲と何が違うんだろう?」「ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでやっているようなコード進行やビートを、歌謡曲でどうやったら活かせるか?」というのは常に頭の中にありましたね。僕にはそれしかないですから。違うものを求められても自分の中にあるものに近づいていくし、それがアウトかOKかはレコード会社が決めればいいっていう。百恵さんに提供した曲は、ほとんど受け入れていただきましたけどね。