宇崎竜童、ロックンロールへの夢から開けた50年の変遷 山口百恵とのエピソードや“生死を分けた出来事”も
「戦争の狭間で生き死にが決まった」
避けては通れない反戦への想い ――ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「沖縄ベイ・ブルース」、竜童組の「YO-SORO」、ウクライナの危機をテーマにしたソロ曲「River・2022」など、平和や反戦を歌った楽曲も発表してきました。こういった楽曲も宇崎さんのライフワークなのでしょうか? 宇崎:そこまでとは思ってないんですけど、自分の中に降って湧いた感情があって、「これをどうしても曲にしたい」ということがあるんですよね。例えば「YO-SORO」は、阿木が審査員を務めた高校生の作文コンクールがあって、「これを推したいんだけど、読んでみてくれる?」と渡された作文がもとになっています。その作文を書いたのは、ベトナム戦争が激しい頃に難民船に乗って日本にやってきた女の子。その作文を読んで「俺たちは大事なものをどこかに置き忘れていたな」と思ったんです。親に対する感謝、兄弟や家族への思い、戦争の悲惨さなどを置き去りにして、有名になりたいとか家建てたいとか外車買いたいとか、そんなことばっかりになって。その女の子の文章を読んで、「これは歌にしなくちゃいけないな」と思って作ったのが「YO-SORO」なんですよ。 「River・2022」は阿木の歌詞が先にあったんです。ちょうどコロナ禍のときで、仕事が全部すっ飛んでしまって、ずっと家にいなくちゃいけなくて。テレビでニュースを見てると、ウクライナ侵攻とコロナのことばっかりだったんです。その中で知ったこと、感じたことが心に溜まって捌き切れなくなり、これは歌にするべきだなと。ステージではロシアのウクライナ侵攻を報じた新聞のコピーの裏に歌詞を書いて、それを1枚1枚捨てながら歌ってます。 ――素晴らしいパフォーマンスだと思います。 宇崎:そうやって時折、自分たちの思いを歌にすることがあるんですよ。そんなに頻繁に反戦歌を書いているわけではないですし、コンサートに来てくださる皆さんは、エンターテインメントを求めているところもあると思うんです。そこで現実に引き戻すような曲をたくさん歌うのはどうなのかな? という気持ちもある。でも、「ここは避けて通らないほうがいいよね」と思うこともあって。「50年もやってきて、甘っちょろい歌ばっかり歌ってるんじゃねえよ」という気分も自分の中にあるんですよね。 ――宇崎さんは1946年生まれ。戦争の傷跡が生々しい時代に育ったことも影響しているのでは? 宇崎:僕は終戦記念日(1945年8月15日)の半年後に生まれたんですよ。これは親から聞いた話なんですが、8月14日にお袋と祖母が話し合いをしたそうなんです。身ごもったことがわかったけど、こんなご時世に子供を産んでいいのだろうか? と。その翌日、祖母が玉音放送を聞くわけです。「戦争は終わる。産みなさい」ということになり、僕がここにいる。戦争の狭間で生き死にが決まったというのかな。僕は右翼でも国粋主義者でもないですけど、(戦争を終わらせた)昭和天皇にはすごく感謝しています。 ――そんな状況の中で生を受けた宇崎さんが、10代になってロックンロールが大好きになって……。 宇崎:戯け者ですよね(笑)。だからこそ竜童組では、僕が生まれる前の日本にあった文化を自分たちのエンターテインメントに入れてみようと思ったんでしょうね。メンバー紹介、八木節に乗せてたんですよ。「八木節イントロデュース」という曲なんですけど、それを聴いた『紅白歌合戦』のプロデューサーから「紅白(『第38回NHK紅白歌合戦』)に出てください。ただし八木節で」と言われて。「俺たちが八木節をやっていいのかな」と思いましたけど、ありがたかったですね。 50周年コンサートの先へ 音楽家として“やり残している”こと ――昨年から今年にかけて50周年を記念したメモリアルコンサートを開催中。プロデュース、選曲は阿木燿子さんだそうですね。 宇崎:プロデューサーの言いなりです(笑)。「竜童組の曲は外せないよね。和太鼓を叩いてね」と言われて。「30年叩いてないよ」と言ったら、「また習えばいいじゃん」と(笑)。コンサートに参加してくれている辻勝(和太鼓奏者)に週2回教わって。トランペットの練習もしましたね。選曲に関しては、「50周年はもしかしたら最後の節目かもしれないから、みんなが知っている曲がいいよね」と。あまり知られていない曲であれば、その前に(楽曲制作の)エピソードを語るようにしてます。コンサートが始まってみると「ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの頃から聴いています」というお客さんは半分以下だったんですよ。昔の曲を知らない人も多かったので、「曲に関するコメントがあったのがよかった」という声もいただきました。 ――ファンになった時期がそれぞれ異なるでしょうからね。宇崎さんは常に変化と進化を繰り返してきたので、リスナーによって“音楽家・宇崎竜童”の捉え方も違うのかもしれません。 宇崎:そうですね。ダウン・タウンを解体して、竜童組を作ったときも「裏切ったな、この野郎」という声がありましたから。サングラスを外したときもそう。近所に蕎麦屋があって、よくすれ違う出前持ちの少年がいたんですよ。(サングラスをしていたときは)いつも挨拶してくれてたのに、外したときに僕の顔を覗き込んで、「ああ、ダメだ!」って(笑)。 ――蕎麦屋の少年としてはだいぶショックだったんでしょうね(笑)。 宇崎:でも竜童組で好きになってくれた人もかなり多いんですよ。年間150本くらいライブをやっていたし、全国津々浦々を回ったので、そこで掴んだファンもいるんじゃないかな。地方のお祭りなどにも出てたので、「竜童組はタダで観られる」と思ってた人もいそうだけど(笑)。 ――宇崎さんのキャリアはこの先も続いていきますが、やり残していることはありますか? 宇崎:そういう質問をされたときに、いつも思うことがあって。アフリカのコンゴ民主共和国に音楽リポーターとして行ったことがあるんですよ。当時の国名はザイールでしたけど。赤道直下の電気も通っていない村を訪ねて、部屋の中も見せてもらったんですけど、そこで暮らしている子供が「Stand By Me」(ベン・E・キング)を歌ってたんです。そのときに「すげえ曲なんだな」と思ったし、「俺はまだそういう曲を書いてないな」と。自分が死んだ後でもいいんだけど、アフリカの少年が口ずさんでしまうような曲を作ってみたい。それはずっと思ってますね。
森朋之