宇崎竜童、ロックンロールへの夢から開けた50年の変遷 山口百恵とのエピソードや“生死を分けた出来事”も
「ロックンローラーになろう」と決めた幼少期の忘れられない出来事
「ロックンローラーになろう」と決めた幼少期の出来事 ――宇崎さんご自身の音楽ルーツは、やはりロックンロールですか? 宇崎:そうですね。僕は7人兄姉の末っ子で、一番近い姉が7歳上、その上が10歳上で。その2人がずっと『FEN』(当時の在日米軍向けラジオ放送)を聴いていて、僕も小学校3年くらいからアメリカの音楽に触れていたんですよ。あるとき、小学校の生活指導の先生が朝礼で「大人が聴くような歌謡曲・流行歌を歌うことを禁止する」と言い出したことがあって。僕は歌謡曲を知らなかったから「関係ないな」と思って、エルヴィス・プレスリーの歌を口ずさんでいたら、告げ口されてしまったんですよ。お袋も呼び出されて、「朝礼で歌謡曲を歌ってはいけないと言ったばかりなのに、お宅ではどういう教育をしてるんですか」と叱られて。そのとき僕が「先生、僕が歌ったのは歌謡曲じゃありません。ロックンロールです」と言ったらしいんです。 ――おお、カッコいい……。 宇崎:僕は覚えてないし、余計に怒られたみたいですけどね(笑)。その後、忘れられない出来事があって。僕の担任は教職課程を終えたばかりの若い女性だったんですが、その先生が当直の日に校庭で遊んでたら、呼ばれたんですよ。何だろうと思ったら「君、怒られてたよね。その曲のレコード、持ってるの?」って聞かれて。「姉が持ってます」と答えたら、「先生、それ聴きたいな」って言われたんですよ。若い女性がロックンロールを聴いてたら“アプレ(アプレゲール/旧態依然とした価値観を否定し、無責任・無軌道な生き方をする若者を揶揄した言葉)”と言われるような時代だったから、先生にそう言われて、すごく嬉しくて。急いで家に戻って、姉のレコードボックスから『Heartbreak Hotel』のレコードを持って行ったんです。そしたら先生が体操のときに使う蓄音機で、そのレコードをかけたんですよ。校庭のスピーカーからエルヴィスの曲が流れたんですけど、あんなに感動したことはなかったですね。 ――すごい。映画のワンシーンみたいですね。 宇崎:あのとき「俺はロックンローラーになろう」と思いましたね。とにかく子供の頃はアメリカの曲ばっかり聴いてました。たまたま耳にする曲以外は、日本の曲はあまり知らなかったんじゃないかな。 ――ダウン・タウン・ブギウギ・バンドと同時期にキャロルやサディスティック・ミカ・バンドが活動していましたが、宇崎さんはどんなふうに捉えていましたか? 宇崎:サディスティック・ミカ・バンドは、垢抜けたフォークバンドだと思ってましたね。加藤和彦さんは「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)の印象があまりにも強すぎたから、ロックバンドというより、ポップなバンドなのかなと。キャロルは僕らよりもデビューが早くて。チャック・ベリーの古い曲なんかもカバーしていて、オーソドックスなロックンロールバンドだなと思ってました。あとは桑名正博のバンド(ファニー・カンパニー)。大阪のブルースバンドですよね。 竜童組で広がったサウンド 「“これが日本なんです”というものを聴かせたい」 ――ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは1981年に解散。1985年に竜童組の活動をスタートさせます。西洋音楽と日本の伝統音楽を融合させた竜童組の成り立ちを改めて教えてもらえますか? 宇崎:ダウン・タウンは8年半やって、解体して。その後はソロになったんだけど、3年くらいはダウン・タウンを引きずっていたところがあったんですよ。ちょうどその頃に、角川のアニメ映画『カムイの剣』(1985年)の音楽をやらないかと依頼があって。監督のりんたろうさんと打ち合わせをしたときに、「和太鼓を使ってくれないか」と言われたんですね。さらに監督はケチャ(インドネシア・バリ島に伝わる民俗音楽で、舞踏を伴った合唱劇)を入れてみたいと、そんな演奏ができるミュージシャンを集めました。特に林英哲(太鼓奏者)の存在は大きかったですね。彼が鬼太鼓座にいたときに知り合って、ダウン・タウンと鬼太鼓座でアルバムを作ったことがあったんです(『激昂』/ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド VS 鬼太鼓座/1980年)。「和太鼓だったら英哲しか付き合いがない」ということで『カムイの剣』の音楽にも参加してもらったんだけど、それがすごく面白くて。 その後、「新しいバンドを作りたい」と思って、英哲に声をかけたんですよ。『カムイの剣』で知り合ったミュージシャンたちにも参加してもらって、ロック一色のバンドではなく、和モノの音楽、ソウル、ジャズ、クラシックなど、いろんなところから来た人たちが集まったのが竜童組ですね。日本の食卓にインスパイアされた部分もありました。僕らは和食ばっかり食べるわけじゃなくて、中華や洋食も食べるし、スパゲッティも食べるでしょ。オールジャンルのミュージシャンを集めて「これが日本の音楽です」ってやれば、海外にも出られるかなと思って。 ――竜童組は海外公演も積極的に行っていましたね。 宇崎:随分いろんなところに行きました。アメリカのレコード会社の人に聴いてもらったこともあるけど、そのときに想定外のことを言われたんですよ。「私たちが作ってきたアメリカンミュージックに和のテイストを乗せただけだね、君たちのバンドは」と。それを聞いて、すごく腹が立ってね。通訳の人に「そうなったのは戦争に負けたせいなんだよ。君たちの国は俺たちを束縛し、教育まで決めてきたじゃないか。俺たちはそれまで持っていた日本の文化をどこかに置いて、君たちの言うなりにやってきた。だから俺たちの音楽はこうなってるんだ」って伝えてもらおうとしたんだよ。実際にそのまま言ったかどうかわからないんだけど、アメリカでのリリースはなくなりましたね。 ――竜童組には、アメリカに影響されるだけではなく、日本由来の音楽を再興する役割があったのかもしれないですね。 宇崎:そうですね。それまでずっと欧米の音楽文化にかぶれてた僕が、竜童組を作ってからは「アスファルトを剥がして、土の匂いを嗅いでみようか」という気持ちになりましたから。日本の伝統的な音楽を研究したし、物売り(食べ物、生活用品などの路上販売)の掛け声を集めたレコードまで買って。世界中の民族音楽も聴くようになりました。音楽番組のレポーターとしてアフリカに行ったり、フランスでやってるバイクの耐久レースに出たりしたけど、現地で聴く音楽にはびっくりするような新しさがあった。竜童組として海外で公演するときも、「これが日本なんです」というものを聴かせたいと思ってましたね。