名前も街並みも消滅した「谷町」だけど、実は意外な場所で目にすることが…<旧町名>でたどる港区の歴史
◆芝琴平町、赤坂檜町、芝二本榎西町 <芝琴平町> 旧町名旧町名言ってても、われわれがこの目で見られるのはせいぜい80年以内のものでしかないわけです。震災や戦災で物理的に焼失したのはもちろんですが、関東大震災後の帝都復興計画によって100年前どころか江戸時代からつづいた多くの町名が消滅してしまいました。 例えば港区新橋。旧町名は芝新橋ですが、その前の旧々町名は源助(げんすけ)町や露月(ろうげつ)町に烏森(からすもり)町など、より細分化されより個性を光らせていたのです。 表札などの本来期待する形ではないにせよ、それらの旧々町名に触れることはできないだろうか。そう考えて東京をさまよいたどり着いたのが虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)でした。 境内には大変珍しい銅製の鳥居が建立されていますので、いくつもの旧々町名が刻まれています。奉納が1821年のため、これらは江戸時代のリアル旧々町名に間違いありません。 <赤坂檜町> 乃木坂という坂があります。あのグループ名が一人歩きした結果「乃木坂 坂」と検索しないと情報に辿りつかないこの坂がある場所の旧町名は檜町(ひのきちょう)です。 檜の語源は最高の木を意味する「日の木」で、語源通り耐久性・品質共に最高の建築木材です。そういえば旧町域内の超高層ビルも高さ東京1位。檜町は最高の町。 <芝二本榎西町> 住居表示前は複数家屋が同じ地番はざらでした。その最たる例がこの二本榎西(にほんえのきにし)町。なんと地番が1~4番地のわずか4つしか存在しない町でした。 これは明治期に土地が大きく区画された結果なのだとか。 ちなみに島崎藤村が一瞬住んだ次兄宅は二本榎西町3番地。あれ、写真は2番地だ。まさか藤村のお隣さん?
◆芝三田小山町、赤坂氷川町、麻布霞町・麻布笄町 <芝三田小山町> 絶滅危惧種という言葉が街並みにも指定できるならぜひこの町に。 芝三田小山(しばみたこやま)町を初めて訪れたのが平成21年。町のランドマークである小山湯はその2年前に営業を終え、町内の一部にはすでにタワマンがそびえ建つなど、人の往来はあるものの再開発感がひしひしと伝わってきました。 なぜか「芝」の冠が抜けた旧町名を発見したこともあり、それ以後も何度かこの町を訪れていました。平成28年に再開発の都市計画決定後も町の様子に変化は見られませんでした。 そして令和2年。讃岐会館が4月末に閉館する報を聞き嫌な予感がしましたが、現地の掲示板に貼られた公告を見てその予感は現実となります。 「三田小山町西地区市街地再開発組合の設立認可公告」。 ついに三田小山町の再開発が始まります。公告によると事業施行期間は令和2年9月10日から令和10年9月30日まで。 小山橋を渡ると広がる建物群、小山湯、小山湯横階段から見下ろす街並み。長年この地でお疲れさまでした。 <赤坂氷川町> 氷川神社由来の氷川町は港区の他に中野区と渋谷区。氷川を名乗った彼らとは違い、氷川未遂の旧町名も存在したのです。 隣にあるのが読み方は同じで簸川神社な文京区氷川下町、町内にあるのに氷川じゃない中野区宮里町。そしてそんな彼らを横目にしれっと現町名に氷川町を採用したのが練馬区と覚えましょう。 <麻布霞町・麻布笄町> 六本木通りと外苑西通りが交わる西麻布交差点は、2つの坂の合流地点でもあります。 六本木に伸びるのが霞坂、渋谷に伸びるのが笄(こうがい)坂。いずれの坂名も西麻布にあった旧町名です。坂と同様町域も近接し、麻布を除くと共に漢字1文字のニコイチ感。 どちらも欠けて欲しくない思いであえてセットでの紹介でした。 ※本稿は、『旧町名さがしてみました in東京』(二見書房)の一部を再編集したものです。
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