「泣く泣く切った映像や音から、最後に珠玉の言葉が降ってくる」ドキュメンタリー制作でたびたび起きる奇跡
「お作法」その3 台本を常に手元に
台本になったものは、夜中でも枕元に置いて、いつでも赤ペンで書き込めるようにしています。編集している時はずっと頭のどこかで考えています。あまり行儀のいいことではありませんが、食事をしている時も横に台本を置いているし、居酒屋でクールダウンしながらビールを飲んでいる時もそうですひとり居酒屋で赤ペンを持って台本に手を入れている姿をよく笑われます。 「こんなところで仕事しなくてもいいじゃん」と言われるんですが、頭から離れないので。「それが仕事なのか?」と言われたら、別にタイムカードを押しているわけでも何でもないですけど……。 やっぱり、卵を大切に持っているような感覚でいる時に、ふと浮かんだ言葉を捨てたくないんです。すぐ忘れるから、その前に台本に書き込む癖を持っていると、どこかで「信じられないような言葉」がふっと降りてくることがあるんです。大抵、番組のラスト「本当にこの言葉でいいのか?」「もう一言、何かが足りない」と思う時に、「ああ、そうだ。これだ!」と書くのは、ほとんど午前2時の居酒屋のカウンターです。 編集では映像と音を紡いでいくわけですけど、編集マンが膨大な量の映像をちゃんとつないでくれた時に、ディレクター・記者として最後に「あと何ができるか」、つまり、きちんとしたナレーションを間に挟み込むことによって、前後の映像・音をどれだけ引き立てられるか、ということになります。 最後は、活字をどう書くか。もう1テンポ、もう1ランク上に上げるのが僕の頭の中で可能になるんじゃないか。子供が泥団子を磨いている時、最後にキュッキュッとやって輝かせるように、言葉によって「きれいに磨く」というか。そして、それは「落としてしまった中」から出てくることが多いんです。総合的に「一つのもの」になっていくような感じがします。 出来上がった時はいつも「これが自分の最高傑作だ」って思うんですが、作り終わった後考えると「やっぱりこうすればよかったかな…」と思うこともよくあります。そんな思いで、今回も『リリアンの揺りかご』という80分の長い映画を作ってみました。僕がナレーションにどんな言葉を書いているか、を見に来た方に感じてもらえたらと思います。
神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。報道部長、ドキュメンタリーエグゼクティブプロデューサーなどを経て現職。近著に、ラジオ『SCRATCH差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』の制作過程を詳述した『ドキュメンタリーの現在 九州で足もとを掘る』(共著、石風社)がある。80分の最新ドキュメンタリー『リリアンの揺りかご』は3月30日、TBSドキュメンタリー映画祭・福岡会場で上映予定。